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結婚という結びつき。

人が結婚について語るとき、自分の親の事を避けて通ることはできないだろう。
それはもっとも間近に見ることのできるcase studyであり、
結婚というものがどういうものなのか、
身をもって実践してくれている「先輩」の姿でもある。
しかしそれはあまりに幼い時期から子供の世界に支配的に関わっており、
それに接する小さな我々にとって、
case studyというにはあまりに一方的な影響が強すぎる。

こうして母親について書くとなると、
少々の逡巡と一抹の躊躇は否めない。
彼女は24歳で父親のもとに嫁ぎ、僕や弟を産み、
15年後に家を出て実家に数カ月ほど出戻ったあと、
その近くのアパートに部屋を借りた。僕はちょうど高校受験の時期で、
親戚の家のひと部屋に母親と弟と
布団を3枚「川」の字に並べた横で受験勉強をしていた。
母親はなんというかバイタリティ溢れる人で、気が強く、
悪気はないのだがいつもひとこと多い。
50代の半ばを過ぎた今でも、とある化粧品会社のセールスの仕事で、
一人で事務所をやりくりし小さな軽自動車で夜遅くまで走り回っている。
彼女が家を出た理由はいくつかあるが
(常に理由というものは一つではないと考える)、
ようするに家庭内不和が原因だった。僕が物心ついた年齢になってからは、
母親を含めた一家全員が和気あいあいとしているような光景は
ついぞ見ることができなかったし、
父親は度数40度の濃い焼酎を毎晩一本空け
(彼のこの習慣は10年前に他界するまで続いた)、
気の強い母親と激しく口論し、時に蜷川幸雄の演出のごとくに灰皿が飛びかった。
そうでなければ祖母と、実は血の繋がっていない祖父に向かって
激しい悪態をついた。
孫には優しかった祖母と祖父だが、自己主張の少なく大人しいタイプの祖父に対し、
祖母は「千と千尋の神隠し」の湯婆婆のようにアクが強い人間で、
昔から母親とは合わなかったらしく、
母親いわく「婆ちゃんにはもの凄くいじめられた」ということだった。

少年期の人格形成には少々不向きと言わなければならない環境に育った僕は、
卒業して成人と言われる時期になってからは
そういったややこしい家族の肖像を忌避するかのように、
東京へと引っ越し、経済的および精神的な自立をこころみた。
それは少々そっけないと思われるほどの距離感だとは思うのだが、
自分にとって過剰にストレスにならない距離をとる必要があったのだった。
そうでなければ僕はとっくに自分の家族のややこしくもおぞましい
「縛り」に潰されていただろう。

毎晩強い酒を飲むようになった父親は、
おそらく自覚的だったのだろうと思うが、肝臓をひどく患った。
よく「俺は入院した時点でもうだめだろう。だから入院しないんだ」と言っており、
僕は何度も酒を止めさせようとしたのだが(実際その試みは一度は成功した)、
結局のところ彼は寝酒の焼酎をやめることできなかった。
夏のある日、電話で彼が入院したという知らせを受けたとき、
僕の覚悟はすでにできていた。
それはもちろん父親がこのまま退院することができないという覚悟だ。
ちょうど八月、お盆の時期だったので僕は帰省して病院を訪ねた。
その時すでに彼は意識が薄く、酸素マスクが必要なほど弱りかけていた。
しかし時々話す事はできたので、
僕はこれが最後の会話になるかもしれないなという気持ちで
ぽつりぽつりと他愛もない話をした。
元気になってくれ、と言ったかどうかは覚えていない。
もちろん元気になることを望んでいたが、医者から聞いていた病状は深刻だった。
1時間ほどで僕は病室をあとにし、東京に戻って忙しい生活を続けた。

それから数週間後、事務所で働いていた平日の昼間に、会社に電話がかかってきた。
危篤、ということだった。
とっくに覚悟はできていたと思っていたわりには
明らかに動揺している自分に驚きながら、
その時とりかかっていた仕事を引き継いでもらい、
すぐに新幹線で地元の病院へと向かった。
彼はお盆に見た時よりもさらに痩せ細っていて、鼻と口にパイプを通されていた。
かろうじて生かされているという状態だった。
機械をはずせば、もう生きてはいられないという。
祖母と祖父、親戚の意向で生命維持装置ははずされないまま、
まさに半死半生の状態で1週間、僕はほとんどを父親の病室で過ごした。
かすかに息だけをしている父親はかつての神経質な荒々しさは微塵もなく、
ただのか弱い痩せた重病人だった。そして1週間後、ものものしい機械ははずされ、
15分ほどで心停止が認められた。午後○時○分。御臨終です。
ドラマのような医者の言い方を僕はとても冷静に聞いていた。
ほんとうにドラマのように言うんだ、と思った。
さらに1週間をかけて通夜から葬式、火葬までの一連をとりおこない、
僕は東京に戻った。


家出同然で飛び出していた母親は、結局祖母から父親に面会することを許されず、
また母親本人の意向もあって一度も病院を訪れる事はなかった。
病院にひとりで泊まり込んでいた時期に僕は、
自分しかいないのだから会いに来ても大丈夫だと言ったが、
彼女は非常に迷った挙げ句、会わないという道を選んだのだった。
もちろん葬式にも彼女の姿はなかった。

荼毘にふされてからのあれやこれやが片付いたあと、
僕は母親のアパートに泊まりに行った。
彼女は15年連れ添った旦那が死んだこと、
また自分がその最後になんの関係も持ち得なかった事に対し、
気持ちの整理がつききらないようだった。
そしてときおり思い出したようにさめざめと泣いた。
その夜、二人でぽつりぽつりと話をした。

私は毎日いてもたってもいられなかったのだが、
迷って迷って会わないほうが良いと決めた。
でも、ある日の夜、もの凄く強い感覚があって雷に打たれたような感じだった。
そしてその日はいつまでも涙が止まらなかった。
それで私は、ああ彼はいま死んだのだ、と思った。
そう思うとなにか申し訳ない気持ちでいっぱいになって、
拝まずにはいられなかった。
ひと晩泣きながら、ずうっと拝んでいた。安らかに眠ってくださいと。
そして次に来たのは激しい後悔の念だった。
最後に一度、会ってあげればよかった。
なんで会いに行かなかったんだろう。
会ってひと言、ごめんなさいって言いたかった…。

彼女が強い感覚を感じたその時は、まさに父親の臨終の際の時間だった。
僕はそのとき母親が、父親をどんな形にせよ
愛していたのだということを知ったのだった。



VIVA la Chidoriashi
弁護士秘書の恋する毎日
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by shinobu_kaki | 2004-09-08 10:40 | ライフ イズ

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