KHAKI DAYS
2018-12-05T20:51:42+09:00
Shinobu_kaki
移動祝祭日
Excite Blog
「覚悟」について。
http://kakiwo.exblog.jp/238890780/
2018-12-05T20:39:00+09:00
2018-12-05T20:51:42+09:00
2018-12-05T20:39:48+09:00
Shinobu_kaki
言葉は踊る。
「ならばよし」という言い方が好きだ。いろんな姿勢や覚悟とかを内包している
立派かどうかは知らないが、覚悟と信念を持って、家族を守るために、毎日仕事をしていますよ。
自分が絶対的に正しいと思うことが実は正しいとは限らない、というのは前提。だから主張するなということではなく、他人とコミットする際にはある覚悟が必要ということ。
「自分を棚に上げて偉そうなこと言いやがって、何様だよ」と思う人はいるのだろうな…と覚悟しながら、いつも言い切る感じでツイートしてる。
優先順位を決めるってのは、下位のものを本当に捨てるくらいの覚悟が必要ってこと。有事でなくても、その覚悟の濃さが何かを決定づける気がする。
思考停止者に対して何かを指摘するということは、その是非はどうあれ攻撃を覚悟しなければならないのだろうな。なぜなら「自分と異なる意見を許容しない」というのは思考停止者の正しい属性であるから。
人の性格なんて死ぬまで変わらない。だいたい人の頭の中で何か起こっているかなんて誰にも(本人にすら)把握しようがないのだから、その人の性格がどうだという判断は固定的ではない。だから性格を変えてやろうというのは、とりもなおさずその人自身を否定しているのに等しく、憎まれる覚悟が必要だ。
殉ずるって、覚悟。覚悟って、潔さ。潔さって、他の可能性を省みないこと。攻撃的なあきらめ。
手塚治虫は「存在の苦渋」に目を向けてるから、読む時にちょっと重さを引き受ける覚悟がいるのよね…。
タトゥーって多かれ少なかれ「親からもらった身体をどうこうすることについての何らかの覚悟」という意味を抜きには語れないと思うんだけど、以前そうしたツイートをしたら「意味がわからない。心外だ」みたいなリプライをもらったことがあって驚いた。
マインドの多くは広義の「教育」によって形づくられると思うが(抑圧とかね)、さまざまなそれらから影響を受けた結果を、自分の性格として責任持たなきゃいけないのがつらいところだな。覚悟はいいか?
どんなことであれ覚悟がないと、結局どっちでもいいという結論になる。覚悟って態度を決めること。誤解される可能性をある程度含めること。
ここで一人で誰とはなしに書いている内容と、実際に会う人と話す感じが違うということがあるとすれば、それは対象に向かって話すことが何らかの「働きかけ」になるからだと思う。それは色々を伴うんだよ、相応の意志と覚悟がいる。
教条的な態度を他人に向けた時点で、「偉そうに」と一蹴される覚悟が必要だし、また常識のある人ほどその一蹴を直接口に出すことはない。
自分を形作るものが他人との関係性だとすれば、生きている限りある程度はコミュニケーションによる傷を覚悟しなければならない。それが前提で、嫌なら引きこもるか、タフになるしかない。前者を選んでも「不快さの比率」は何ら変わらないので、母数がどうあれ、快適さの絶対数を稼いだほうがいい。
いかな状況であれ、どんな人であれ、マクロでものを語ることは僭越である、と思う。それが職業的に許されることはあるけれど、職業って役割のことだから、それは理解できる。あと「言う(書く)」というのは基本的にインタラクティブな行為なので、反論や反撃を受け入れる土俵に立つという覚悟がいる。
今後ギャンブルとかにのめり込むとも性分的に思えないし、酒もびっくりするほど飲むわけでもない。いざとなったらかなりストイックな暮らしにスイッチしても構わない覚悟はあるし、仕事はまあ勤勉なほうだとは思う。なので思うのは、仕事で今後きちんと収入を得ていけるかということなんだよな。
「意味」がダサいのは、意味というのが誰でも理解できる共通言語だから。感性は特権的で、わからない人には死んでもわからない。「かっこいい」の正体は「潔さ」だから、切り捨ての覚悟を持った表現が概してかっこいいと言われる。
正しさじゃなく、覚悟とか、泥臭くても続けることとか、公平であろうとすることとか、真摯であることとか、そういうことのほうがうんと価値があるのだよな。
自分は常日頃「失う覚悟」だけはしてる感じなので、そういう部分で落ち込むことは実はそれほどない。シミュレーション済みだから。
苦悩も快楽も不本意も、自分ひとりで引き受ける覚悟のある人は美しいよ。
無粋を覚悟でマジレスすると、人にはダメ人間願望があって、酒はそれを正当化してくれるリーガルなアイテムなんですよ。
駆け引きとか、相手を試す行為は、関係を終わらす覚悟を持っとかないとダメだろうなあ。
人生の残り時間をなるべく瑞々しく、ある程度の覚悟を持って
非難覚悟で言っちゃうけど、犠牲者がいる場合に加害者側が心神喪失者だからと罪に問われないのはよくわからない。
誰しも色々とある中で感情にのたうったり凪いだりしながら、すべて自分のエクスペリエンスをまっとうするしかないという事実に行き着いてたぶん死ぬ。きっと死ぬんじゃないかな、ま、ちょっと覚悟はしておけ
そんなことが許せないのか、と外野が言っても意味はない。その人の中で許せないならそれは許せないことなのだし。ただ許せない人の人生は明らかに閉じていくので、本人が覚悟をもってやってるならそれもひとつの選択だと思う。
考えてるプロセスをここに書きつけることは、誰かから「お前まだそんなレベルなのかよ」と言われたり思われたりするだろうなというくらいの予想と覚悟で書くわけだが
息苦しくてつらくなるほどのプレッシャーなら、多少の評判は落とす覚悟で無視したほうがいいし、実はそんなに簡単には評判は落ちない
親愛のベースがないのに否定的なコミットをするべきでない、と思う。それは戦争覚悟だよ。
「負の連鎖を自分のところで止める」みたいな覚悟が、強さ。
苦労は買ってでもしろ、というのは、必要な苦労(というか努力と言いたいんだと思うが)は、そのくらいの覚悟じゃないと思わず避けて通ってしまうということからだと思う
例えば、論理的に何かを綴るということは、論理という共有可能なものを使用することで、論理を用いたオープンな議論を受け入れるという表明そのものであると思う。それはより正確な論理でもって他者に覆される覚悟を含まなければならない。
誰にとっても、どんな条件でも、それぞれに運命を受け入れる準備と覚悟があるかどうかで、その上でどうなるかは誰にもわからないのだ、という腹づもりで臨むしかないと思う。
気合いと覚悟を担保するためのものが夢や希望と呼ばれる、という言い方もできる
でも世に出した時点で、不特定多数の目にさらされるってのは、褒められる可能性もあれば同時に叩かれたり色々言われるのを覚悟してるっていうことに世の中なってるわけだから。他人の耳目を集めるというのは他人のコストを奪うことで、それゆえ見た人には批判の権利が生まれるんだ。
金を借りる人って、貸してくれた相手を憎むようになることが多い。金を貸す時は二度と返ってこないことか、憎まれることを覚悟しないといけない。
身近な人間を感情的になじる時は、一生恨まれる覚悟がいる。
現状そうだったから、関係があったからといって、明らかに自分の本意でないものとのコミットメントを続ける意味って無いしな。そういう意味ではいつでも切っていいし、切るということは切られることでもあるから、その覚悟さえあれば普通に。
結局いつだって覚悟が自分を自由にするよな。
回る寿司を止めたいなら、家賃を払う覚悟で来な!
内容はどうだろうと、相手を否定するというのは覚悟がいるものじゃないかな
割と「覚悟してきてる人」というところがあるので、何かを損なったり変わってしまって戻れなかったりという事は耐えられるが、痛いのだけはイヤなんだ
「主体性を持つこと」と「覚悟を決めること」と「自分の機嫌を優先すること」ができると大体OKではある
じゃあ、と相手に迎合して自分の意見をとにかく曲げるとして、その場は一旦収まるかもしれないが、自分の中にものすごい無理が生じるし、相手も心からは納得できはしない。それだったら関係を壊す覚悟で、決裂したほうがマシではないかと思ったりする。
突然に始まったものは突然に終わることを覚悟しなければならない、得られたものは失うことを想定しなければならない
なんとなく夫の意識不足みたいなところで語られがちだけど、有休育休とんでもない!という空気の会社や状況だったりすると、場合によっては辞める覚悟の闘争が必要になってきて、それはそれで大きな経済的不安を抱えることになる板挟みの夫、という論調はあまり見ない
あなた『覚悟』してきてるひとですよね…?
「いい人」というのは基本的に他人に嫌われたくない人で、孤独と覚悟が足りない人だと言える。
どの道を選んでも苦労はついて回る。どうすれば良かったかを考えても最後は結局覚悟があるかどうかになってしまう。その時に邪魔になるのは自己憐憫や自分への言いわけみたいなもの
いつ死ぬかわからないから誰しも一分一秒が貴重なんだよ、それを奪う覚悟はあるの?
経済効率や時間効率は大事だけど、それでいったらずいぶん味気ない。もちろん自分が選ぶかどうかだけど、愛着があって覚悟があれば、苦労してもいいんじゃないかという感じ。良くないのは愛着も覚悟もその人の中にないのにやらなければならなくなること。
人が何かを選ぶ瞬間って、その他のすべての選択肢を捨て去ることでもあると思うと、それは愚かになる瞬間とも言える。その愚かに殉じる覚悟があることが、言ってみれば幸せみたいなことなんじゃないかと思うけど。
直接のリプライは相手に返信を求める意志を帯びてしまうことになるし、引用RTは相手に届く時点でどんなリアクションをされても仕方のない覚悟がいる。堅めに言えばだけど。
知的さとは、知識のことではなく、智慧のことでもなく、たぶん覚悟があるってこと。
覚悟とか確信があるってことが重要で、それが得られれば、たとえ実現に至らなくともほとんど達成ではないかとすら思う。
自分も柔道経験者として襲われた時の対処をいつも覚悟しているが、その空気感が伝わるせいかわからないがまだ襲われたことがない
どんなことがあっても覚悟の上、という精神的リスクマネジメントの結果、起きてもいないことをイメージしてしまって気持ちが疲弊するというスタイル
食ってかかったらその相手とはおしまい、という覚悟。
自分も親なわけだけど、子どもがずっと「自分の願う通りに」はありえなくて、遠からず乗り越えていかれる、場合によっては否定されていかれるものだろうという覚悟は一応持っている。
考えが足りないというときの「考え」ってほとんど「覚悟」。深く考える必要は必ずしもなくて、自分の中でこれでいいと思えたらそれはもう充分な思考ではないか。
原始時代に戻る覚悟がある者だけがめんつゆを否定するがいい
今日も話に出たけど、年齢ゆえに厳しいみたいなことは、もし上手くいったらすべて瓦解する程度の危機感なので、それを理由に自分をブロックするのは違うと思った。覚悟は持った方がいいというくらいのものだね。
「迷子になるのを覚悟で、自分を興奮させてくれるあるものとの距離を何とか縮めようとする、これがオスの本能だ」
自分自身のことについては結構「覚悟はいいか、俺はできてる」なんだけど、他人が絡むと違うフェーズができてしまう。人を巻き込んだ覚悟というのはちょっと難しい。逆に言えばそこが試練なのだろう
置かれた場所で咲く覚悟がありやなしや。
誰かがイラストとかマンガをツイートすんじゃん、それにダメ出しする人がいんじゃん、自分で描きもしないのに文句は一番簡単だよねとうんざりもすんじゃん、でも同時に、披露したくてアップしてるとしたら批判みたいなものも受け入れる覚悟がいるのかもというのもよぎるじゃん、でもうんざりじゃん
思いやりとは他人を変えることではない。ただ覚悟があるならコミットするのは自由、という感じではないだろうか。でもなあ、独善的になった人ほど最悪なものはないしな。自分が正しい確信があるから反対意見を受け入れる余地がないんだよね。
政治を叩いている人、自分の発言が絶対にピックアップなどされないとわかっていて、過激なことを書いてるよね?覚悟無いよね
どっちみちまともな路線では太刀打ちできない、独自路線をのびのび突き詰めるしかない。感受性が強すぎて受け身になると潰れてしまう。変だ何だと言われながら、生き恥覚悟で好きにするしかない
いや、わかるよ。オープンな場に書いてるならば、誰に何を言われようが覚悟を持てよと。わかりました。ならば、斬り付けられたら斬り返すけど、文句ないよね?ってなるでしょ。治安悪いって感じだけど、そんな世界に住みたいの?と思う。
あと、昔は特に「仕事のためには親の死に目にもあえない覚悟を持て」みたいな有形無形の圧力があったのは確か。その延長にあると育児休暇というのは遠い世界の話に聞こえてしまう。もしそういう職場にいたら、従業員の身でありながら、場所に横溢する空気や文化と戦わなければならない。
何かに影響をまったく受けずに来た人というのは原理的にいないと思われるしね。当然どこかで自分の意思として引き受ける覚悟がいる。それがないと「やらされてる感」というのは消えなくて、やっても徒労の割に虚しいし、自分の成果としても積み上がらないし。
うまくやる姿勢や努力はあるだろうが、うまくいかないことも普通にある。それは結果として受け容れる覚悟が欲しい
100%じゃないからこそ、人の不確実性については誰でもいくらでも突っ込むことができる(逆に突っ込まれることも覚悟しないといけないのだが)。なので否定とか文句とかサジェスチョンというのはあってもいいが、それは最も安易な行為だという自覚は持ってやったほうがいいと思う。
怒りにも似た前向きさ。絶対にくじけないという覚悟は怒りに似ている
「覚悟というのは絶対に切れない因果関係の中に自分がいて、別の言い方をすると『運命』のようなものがあって、その運命を我がものとすることです。こんなはずじゃなかったとか、これは自分の望んだことじゃないということではなくて、運命を我がものとして生きていく」
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効率化の意識と、水としての感情。
http://kakiwo.exblog.jp/238529472/
2018-05-18T16:56:00+09:00
2018-06-19T14:24:56+09:00
2018-05-18T16:59:04+09:00
Shinobu_kaki
ライフ イズ
我々にとって身近なのは、例えば時間の効率化。
例えば、いつもの通勤電車に乗っていて、その電車がトラブルで少し遅れたとします。閉じ込められるといったレベルじゃないですよ。ほんの少し。でも、そのせいで出社時間にはもしかしたら少し遅刻するかもしれない。その意識があったことで、乗り換えた次の電車のドアが閉まりそうな時に、危ないとわかっていながらついつい駆け込んでしまうとします。そこには「効率化」の意識があるのではないかと思うのです。
確かに、電車が遅れたのは鉄道会社側の都合なのだから、会社にはきちんと理由を説明すれば、遅刻という扱いにはならないかもしれない。でも、そのために必要な手続きというのは結構面倒くさい。その面倒くささを回避するために、何もなかったかのようにするために、ちょっとした「反則」としての電車への駆け込み乗車をする。それは言ってみれば「効率化」と呼ぶべき心の動きではないかと思うわけですね。
駆け込み乗車くらいならまだいいんですが、これが例えば、車を運転しているドライバーがスピードを出しすぎたり、信号無視をしたり、あるいはそういう道交法違反というレベルでなくとも、交差点で左折を急いでしまうとかは全然ありえないことじゃない。それで、横断歩道を渡る人を轢いてしまったりとか…その理由は「急いでいたから」あるいは「時間の遅れを取り戻そうと焦って」みたいなことだと思うんです。それはすなわち時間的な効率化を図ろうとして起こった事故ということになる。効率化なんて生きるの死ぬのじゃないんです。そういう問題じゃない。でも交通事故はまさに生死に関わる問題です。目的と結果のバランスが悪すぎます。それでもそこに、車とスピードという、凶器になり得る要素が重なることで、まったく本意ではない恐ろしい結果に繋がることがあるわけですよね。
効率化は突き詰めるとキリがありません。しかもその思いに囚われすぎてしまうと、ものすごく余裕がなくなって、そんなにピリピリする必要がない場面でもピリピリしてしまう。僕は人の感情を水みたいな液体のように考えていて、いったん熱くなり始めてしまうと人によっては感情はあっという間に沸騰する、そんなイメージを持っています。感情が水だとすると、外側にあるものの熱さ冷たさにすごく影響されるので、自分が常にコントロールして適温を保つのは難しい。急がなければ!という状況に対して、そのボルテージのままに感情は熱くなり、文字通り冷静さは失われます。そうして繊細な判断力は吹っ飛んでしまう。それはさまざまなものを損なうことでしょう。ちょうど、沸騰させてしまったスープから風味や味わいが失われるように。
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「いい人」について。
http://kakiwo.exblog.jp/238465866/
2018-04-17T09:43:00+09:00
2018-04-17T09:43:39+09:00
2018-04-17T09:43:39+09:00
Shinobu_kaki
言葉は踊る。
いい人→人畜無害、よく気がつく→細かすぎる、付き合いが良い→優柔不断、正義感が強い→世間知らず、聞き上手→付和 雷同、前向き→忘れっぽい、気配り→八方美人、縁の下の力持ち→決断力が無い、協調性に優れる→お調子者、集中力抜群→視野狭窄、読ませる文章力→やや誇 張癖あり、慎重→ケチ
血縁という縛りがもたらす過剰かつエゴに満ちたコミットメント、というものに対する拒否反応があった。だから今でも「気はいい人なんだけど口が悪く、おせっかいで押し出しの強い人」はひどく苦手だ。というかアウトプットが乱暴な人は、別に「いい人」ではないと思う。
ある組織に感じのいい人がいたからといって、それはその組織の属性ではないよね。
以前「あなたはどういった人が嫌いですか?」という質問に「図々しい人。やたら押しの強い人。言葉遣いの荒い人。あと偉そうな人はいつでも嫌いです。偉そうにしていい人なんて基本的には存在しない」と答えていたログがあった。2010年4月の自分に同意する。
仕事の場で「なんだこの人…」と思うような人でも、それがその人の100では当然なくて、別の関係性の場ではとてもいい人だったりする。かように人間って多面体。
「あなたの意見は私と同じだ!素晴らしい、あなたはいい人だ!見なさい、ここに我々と違う間違った意見の人がいる、ぜひ間違いに気づかせてあげましょう!!」…要するにやってるのがこういうこと、みたいな人を見かけるとウゲッてなる。
「あの人はいい人だからやることなすこと全て許される」ではないってことですよ。誰もがその中途半端なグラデーションの中で生きてる。
「いい人」の「いい」って何かプラスってことじゃなくて、マイナス要因となることをしないという意味だと思うんだよね。だから「いい人」の定義は「悪い人じゃない人」みたいなことだと思う。何かをしたからいい人じゃなくて、何かをしないからいい人なんじゃないか。
(昔話で)老夫婦が二人とも善良というわけではない場合、いい人なのはおじいさんが多く、おばあさんが意地悪な役回りを演じてる。逆はあまり見ない気がする。
「本当はいい人」と言われる人が、その本当とやらを出してくれるまで待っていられるほど他人はヒマではない。
「近隣にどんな人が住んでいるか」というのは、極論すると家の前に寝ている犬を目印に、みたいな話に聞こえる。変動という意味ではハード情報とソフト情報は同じようには扱えない。「いい人だった」隣人が急に変貌することだってあるし、そこはブラックボックス過ぎて第三者が保証することはできない。
いい人は天国に、悪い人は地獄に、中くらいの人は中国に、っていうあれ好き。
「すごくいい人」じゃなくて「悪い人じゃない」の貴重さ。
いい人は抑圧がありますからね。
短期的には従順で勤勉でいい人であるほど評判が上がるが、長期的には我がままで面倒くさがりで悪人であるほうが色々な意味で良いし、比喩的な意味でも長生きできる。
いい人なんだろうけど、特にトラブルとかもないんだけど、なんか合わない人っていて、不思議だし、面白いと言えば面白い。
ある種の穏やかな優しさというのが取りようによっては「自分がいい人と思われたいだけのエゴイズム」ということにもできるわけだが、そうじゃないケースもある。それは経験則的に、性格のきつい人からイヤな思いをさせられたとか、逆にやさしい人に会ってあったかい気持ちになったとか、色々ある。
「いい人」とは、責任のボールを自分のほうに寄せる人。
よほどの人でなければ、その人となりを知ればいい人だったりする。その人なりの世界観で動いていて、他人と合う合わないがあるというだけで。そういうのは擦り合せなければいいだけの話と思う。
「実はいい人」というのは物語の中だけということが多いんじゃ。
いい人でいたいと思うと、そのために弁解したり説明したり、余計なコストが増える。
自分を守ろうとすると、どうしたって相対的に他人を貶めてしまう。結果、いい人でいたい人が嫌われる。いい人症候群。
「いい人だと思ってたのに、予想外に冷たいこと言われた」という場合、期待値との相対的感覚ですごく嫌な人に感じられるけど、日本の冬もきっとこれ。
「ひと言多い人」って、基本的にいい人に対して使われる。(いい人なのに)ひと言多くて残念な人、というわけだ。
たまたまいい人であったとしても、いかに頑張っていたとしても、周りからはその中の2割ほどの悪さやだらしなさを見て取られる。
いい人は関係性において損をするからいい人なのだ。
礼儀正しく、物腰穏やかで、相手に極端な害を及ぼさない。ごく表層的なことだとしても、「いい人」の定義としては十分。
人は自分がいい人でいようとするから、イヤな人間になってしまう。
「いい人」は場の空気が荒れることを嫌うから、自分のエゴよりも場が円満であることを優先したりする。でもそういう意 識がまったく無い人の、不機嫌コントロールによって相手に要求を通したり欲求を満たしたりといった作為は、他人の善意につけ込むことでありこれはいわゆる 「悪」と呼んでいいと思う。
世の中の問題は基本的に程度問題ですよ。種類で量ったら間違えるし、誰もが「本当はいい人」になっちまう。
他人が望むように振る舞ったって、いざとなれば自分の問題として処理しなければならない時がくる。お世話になったはずの人とも対立せざるを得ないかもしれない。でも最終的には優先すべきは自分というか、自分を優先せざるを得ないわけで、いい人ぶっているとやむを得ない状況の時に裏切りと見られる。
自分の内部に不本意を抱えながら状況に合わせる人は「いい人」と呼ばれる。これは魅力とはまた別の軸である。
「いい人」というのは基本的に他人に嫌われたくない人で、孤独と覚悟が足りない人だと言える。
つまり、全方位に「いい人」として振る舞うという事自体にムリがあるのだろう。
一見いい人そうに見える人は、期待値という点で実は損してる。
いい人はどこか怯えている。
自分にとって不快な世界なら受け入れたくないという気持ちが強くなって当然。自己肯定感の低さというのは、そこまでに受けた不本意さの集積と、その時々で折り合いをつけるのに譲歩の傾向が強かった、つまり我慢してきた人に多いのではないか。それは間違いなく「いい人」なんだけど、いい人はつらい。
つまり「いい人」はトレードオフの感覚が薄いために、交渉下手になってしまう。
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「死」について。
http://kakiwo.exblog.jp/238461187/
2018-04-14T22:48:00+09:00
2018-04-14T22:52:22+09:00
2018-04-14T22:48:35+09:00
Shinobu_kaki
言葉は踊る。
このパターンが最近続いていますが。あ、長いですやっぱり。
人間は感情の動物って言われるけどそうだよね。醍醐味は「喜怒哀楽」の中にある。これらはもちろん生きていなければ得られない。だから生き延びる事がもっとも大事だ。それは「豊かな死とは?」といった死生観とはまた別の話。
死ぬるなら桜の季節がいい。
やせてるほうがモテる、という神話はなんだか不思議だ。生物として見るならある程度太っていたほうが「死」から遠く感じられて、本能的な部分でモテそうなものだけれど。狩猟採集民時代の「やせてる=敏捷で狩猟力が高い」という認識のDNA、というわけでもないだろうに。
今まで一番身近に触れた死は、やはり父のそれだな。危篤という事で東京の会社に休暇をもらってすぐに帰省、酸素吸入器で動けなくなった父の病床につきっきりで一週間を過ごし、それから看取った。
もう意識のない状態が長く、それを病院でずっと見ていたせいか、いよいよとなっても慌てたりはしなかった。諦観のような境地で最後の瞬間を見ていた。親戚や看護士に「声を掛けて!」とか煽られたけど、自分の気持ちは凄く静かで、「今まで頑張ったんだから死を受け入れてやろうよ」という感じだった。
博物館、カタコンベ、聖シュテファン大聖堂にハプスブルクの遺跡たち。ウィーンはどこか「死」のイメージがあるのですよ。現代的ではないというか…。でも決して嫌いじゃない。それにしても歴史上、あまりにも重要な役割を担った街だよね。
墓碑銘の多くは「ここに眠る」と刻まれる。やはり眠りと死は近いところにあるものなんだ。
理想と現実、問いと答え、善と悪、希望と絶望、勝ちと負け、強さと弱さ、生と死、すべての人はそれらの間にいるよね。
自分の死ぐらい勘定に入れておこうよ。
ただ宗教が強いと思うのは、近代がほっぽらかしにしてきた「死」の部分をぎゅっと押さえていること。死んだら葬送されてお墓に入ったりするわけでしょう。その時点で何らかのスタイルを選ばないといけないわけで、本来は生前からそれも決めておかなければおかしいよね。「死」と無関係な人はいないし。
まあマジレスすると、誰もが避けられない死への恐怖や生の辛さへの慰めとして、言わば「救い」として宗教は存在したと思っていて、そういう意味では何を否定するものでもないです。ただそれが組織として暴力的侵略的な性格を持つことには、信仰以前の問題があると思うということ。
思えばリクルートは人生のイベントをことごとく雑誌にしてるんだな。結婚・妊娠・出産・子育て・住宅・旅行…あとは死だけか。葬儀やお墓に関する雑誌を出したら売れるんじゃないか。
死が生の延長線上にあるように、夢も現実の延長線上にあるのだろう。つまり対立項ではないってこと。
震災以降、ぼんやりと頭の中で形になってない思考がずーっとあって、それは「悲劇は常に世界中にある」といったことや「死は最終的には個人的なもの」だったりや「人の苦痛をはかる物差しは同一ではない、いわんや幸福度や」みたいなもののミックスジュースだ。まだ飲めない。
メンタルとフィジカルの間にあるのがエロスなら生と死の間にあるのがタナトスという認識でいる。というのは嘘で、いま思いついたから書いてみただけである。
外殻があるとか自己再生能力があるとか色々あるけど、生きてることの定義は「動いていること」って言っちゃっていいと思う。動かないこと=死だ。
あの地震ですごくストレスを覚えた理由は、停電や品薄といった物理的な不便さなんかじゃなくて、普段は潜在してる「死の影」がやたらと身近に感じられたことだ。
もちろん板子一枚下には常にそれが存在しているのは知ってるが、具体的な形で目の前に突きつけられるストレスというのは段違いだ。自分に危機が及ぶかどうか以前に、死の影を提示されることのショック。提示された者はそれを受け入れるという仕事を強いられた。
日本人は特に死をタブー視する傾向があって、人生は有限という現実から目を背けているがゆえに、自分の時間を奪われることにシビアになれないんじゃないかな。多くの人が、心のどこかで自分はいつまでも生き続けると思ってる気がする。
忘れられることが「死」とすれば、実は色んなことがわかりやすくなる。出世や作品をつくることで何かしら「爪痕」を遺そうとするのもそうだし、子どもを産むことだってそうかもしれない。
死の床に瀕した人が遠目に一羽の白鷺をみとめて「なんて綺麗なんだ、最後にこんな綺麗なものが見られて良かった」と 思ったとする。でもそれが実はコンビニのビニール袋だったら? くだらない話だけれど、わりとこういうレベルの話を修辞で立派に見せているのが故事成語、というものもあると思う。
婦人誌って、服飾と花鳥風月と美と食と死がそれぞれ静謐な感じで同列に並んでる感じがあって、何というか大人の多面性よね。
古代ローマ暦においては今の3月を始まりとして10ヶ月+余りの60日というサイクルだった。不思議な感じね。「死の季節」と言ったらしい。
断捨離って、一種の自死願望なのかな。
自死は再生の願望か否か。僕はあると思うのだよね。だって生者には、死後の想像は厳密にはできないはず。
大晦日〜お正月のコンボは「死と新生」という感じ。一年を除夜の鐘で葬送しているような感じがする。静かに厳かに。
あまりいい想像じゃないけど、いずれ安楽死が一般化するんじゃないかという気がしてる。
無は「何もない」ではなく、無という状態が有るんであって、有の一部ではなかろうか。死は生の一部、みたいな話だけれど。
「死」という字が似合うのは、春だけだな。
自殺点がオウンゴールになり、サドンデスがゴールデンゴールになった経緯からすると、「死のグループ」という呼ばれ方もじきに変わると予想。
「死はわからないし怖いから考えないようにしよう」というのがすごーくある気がする。
死せる孔明、イケル・カシージャスを走らす
こんな世界もあるんだぜ、っていう認識は時として絶望や自死から人を救う。だから本読むのオススメ。
「日本は過労死があるなんて信じられない」という海外の声を聞くと、わかってねえなと思う。精神的に逃げ場のない構造になってるんですよ、そうい意味では救いがないの。
本来「どんな形であれ生き延びること」というのが生物としての最後の砦だと思うのだが、人間はいろいろとこじれさせてしまったので、生まれてから身につけ学習した環境の価値観を優先して、自ら死を選ぶという本末転倒を選んでしまう。高度すぎる、と思う。
人はなぜ酒を飲むかね。やはり緩慢な死を求めているのかね。緩慢に死を手元に引き寄せることで、生の実感を得たいとかね。
手塚治虫が子供向けじゃないなあと思うのは、作品に「死」の匂いがあるんだよね。
村上春樹的に言えば、手塚治虫作品には「死とセックス」が書かれてる。そういう残酷さがある。
自分のことを何らか知っていてくれる人がいる、というだけで自死の抑止になると思う。
人生が旅なら、死はすべて野垂れ死にだ。
何もなくとも死とか別れとかそういうイメージをかすかに抱きながら生きてるタイプ、意志とは関係無しに。
ダイエット(diet)は絶対「死(die)」からの派生だと思ったら、「生活様式」を意味するギリシャ語の「diata」が由来だった。
誰しもいずれ死ぬのは事実。だが死のことについて語ると「そんな暗い話をするな」というトーンになる。実は不思議に思っている。普通に「将来」の話なのだけれど。
みたらし団子はその昔、自分の団子を食べられたくないお寺の和尚さんが「この棚を開けて、中にあるものを見たら死ぬぞ」と坊主達を脅したことに由来する。見たら死、が「みたらし」になったわけだ。嘘です。
会ったこともないし直接のやり取りも無かった有名人の死が心を揺さぶるというのは確かにあって、それもひとつの関係性なのは間違いないよね。不思議なことだが。
非活動的なことに幸福感があるというのはわかるし、面白い。幸福は実は死に近い。
「知人の死を経験し『もう後がないのであれば、できるだけ引っかき回して人生を終わらせたい』と決意」という感じはとてもよくわかるんだけど、知人の死を経験した上でニュートラルでいるというのが一番強い態度なんだろうと思ったりもする。もちろん否定じゃなくてね。
地元の街では、今の自分くらいの年齢の人の自殺が相次いでいるということだ。せつない。妻子がいて、家も建てて、仕事もある40代が自死を選ぶというのがわからないと言っていた。自分も厳密にはわからないが、それらは自死するかどうかとは関係ない気がする。
死を想像しながら生きる事は、生物としてかなり特殊なことなのではないだろうか。
「(比較的)死に近いからシニア、(比較的)受精に近いからジュニア」って覚えるといいよ。
死というのは、見ようによってはそれこそ死神のようにまとわりつく。ひとり閾値を越える人が現れると、そこの境界に対する抵抗を失う人が多くなる、そんなイメージがある。
自死というのは、ある意味でものすごいパワーの発露だ。踏み越えるための力がいる。逆にいえば、力の余っている人しか自死できない。
仕事は死に至る病。
あらゆる作品を「性」と「死」のメタファーで見るようになると、おそらく重症。かなり置き換えられてしまう気がするだけに。
身近にも、またそうでなくても、仕事による疲れやストレス、仕事の場における軋轢や他人のストレスのあおりなどで、けっこうしんどい目にあってるケースが多々見る。死に至ってる人もいる。その正体は人間関係なのだろうが、その時にしていた仕事がその形のままでなかったら、と思わずにはいられない。
危篤状態の父親を病室で家族持ち回りで看ていた時期があったんだけど、ぴくりともしない父親の病床で夜中じゅう起きて椅子に座りながら、一人で「完全自殺マニュアル」を読んでた。別に自殺したかったわけじゃなく、身内の死を色濃く感じていたせいで、そのひんやりした感じが合ってると思ったのかな。
死について言及する人ほど意外とピンピンしていると言われるので、ひとつにはそこを狙って言及してるというのもある。
痛みというものがなければ、世の中は自死であふれていた気がする。
魚も鳥も、人間に比べると成長する前に死んでしまうリスクがとても高い。我々が見ているのはその生き残った何割かのうちのひとつの個体ということになるんで、種全体として死をバーターにしている分、自由に見えるというのはあるのではないか。
人の命を「魚類とかにおける多産多死のずいぶん死ななくなったやつ」とすると、権利やチャンスなんて平等であるはずもなく、運の要素がかなりの部分を占めるのでは。
生をもっとも強く実感する方法は死を思うこと、というのは逆説的だがそうだよね。
積極的安楽死(尊厳死)を認めている国は、スイス、オランダ、ベルギー、ルクセンブルク、そしてアメリカのオレゴン州とワシントン州か。
ソーシャルにおける死とは、更新の停止とイコールである。見かけなくなったら、その人が実際にどうなってしまったかはわかりようがない。
子供の頃、ダイニングのことを「ダイ→死→死に近いのは眠り→寝室」のことだと最初に思い込んで以来、いつも認識に一瞬の遅れが発生する。
静かな湖、死に近い感じする。
死も逃避ですから、違う逃避経路を持てば良い。
自死ってさ。対象が自分というだけの殺人なわけだから。それは凄いパワーだよ。逃避と言えば逃避だが、楽な道ではないわけで。
一つ言えるのは、死を強く願う時って「死んだほうがうんとマシ」と思える状況があって、精神的な終わりが見えない時で あるはず。普通の人でも持つのは困難な「人生のプランB」という価値観を、エリートのみそらで持てというのも無理筋ではないか。まあエリートの内面を理解 してるわけではないけどさ。
言ってみれば、自分は「日々は終わらない」と思っているということではないか。日常のルーティンに永遠性を見ているから、一種の「緩慢な死」としての飲酒行為をするのではなかろうか。平たく言うと、一日単位で大切に生きてないのではないかな、と思うわけだ。
自殺は「自由死」とかに言い換えられそうな気がする、ネガティブなだけではない行為として。
歌いながら酔って水に落ちてそのまま、みたいな死に様がいい。
死んだこともないくせに死を語るのは不遜かも知れないが、死を語れるのは生きている者だけというパラドックス。
「死」「師」「詩」はどれも「シ」だが、「死」だけが「シュ」に近い音で発音される。
あらゆることは死の恐怖から逃れるために行われる、とも言える。
いつか終わるというのが救い、というのは死というよりも、有限性があることによる荷の軽さ、かな。苦しみってだいたい無限幻想でしょ。いつ終わるのかわからないから苦しい。でも終わりがわかってれば実はそれほど苦しくない。厳密にいつなのかは読めなくても、確実にそれがくるというのは救いだ。
キルケゴールの「死に至る病」というタイトルの元ネタは、ヨハネ書のラザロの復活の話にあるイエスの言葉、「この病は死に至らず」。
人は生きている限り、何かに不死を見出そうとする意識からは逃れられない。自死ですらそうだと思う。
苛烈な拷問死も、仕事のストレスによる自死も、死は死である。
自死願望というのは、死にたいでも生きたいでもなく、「この世から出て行きたい」じゃないか。
自死はあてつけにもならないけどね。
死が怖いというよりも、救いのない生が怖い。
「孤独死」というが、孤独でない死があるのだろうか。
絶望を動機とした不摂生からの病死というのは、死因は病死かもしれないが、その本質は自死である。
自死はどこで行われたかによって、理由が見えてくると言われる。つまり極めて強い怒りがある。
高度に洗練された希死念慮は、悔いなき人生と見分けがつかない。
睡眠不足が体調不良を招いて死に至るというよりも、眠るという行為が「生を薄くする」ものだとするならば、ちゃんと眠ることで消費する生を延ばし延ばしにしている…というイメージはどうだろうか。
さまざまな人の訃報に触れる。そのとき思うのは、手垢のついた言い方かもだが、やっぱり死の公平性みたいなこと。
先々のことはわからない、こうなっていればいいという共通ビジョンがあるわけでもない、そしてどんな人にも公平に死が訪れるとすると、結局いまこの瞬間にしか生はないという帰結になる。
死に至る病にとらわれるとそのように精神がシュリンクしてしまうが、死に至る病とは絶望のことで、絶望というのは絶望感のことだ。つまり感情で、感情は反応によって変化が起こりうる。だからギリギリまで切り替えるチャンスはあるはずだと思う。
ツイッター三千世界においては、ツイートせぬは死も同じ。
なんだろう、じわじわと死に向かってあるようなこの感じ…と書いていて思ったが、そのまんまだった。我々は誰しもがじわじわと死に向かっている。
負わされてこの世に生まれ、それを自分のものとして責任を持つという矛盾を受け入れ、死に至る。
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「寂しさ」について。
http://kakiwo.exblog.jp/238459319/
2018-04-13T23:59:00+09:00
2018-04-14T00:15:50+09:00
2018-04-13T23:59:12+09:00
Shinobu_kaki
言葉は踊る。
やっぱり長いです。
待っている事で寂しさを覚えた時は、自分からちょっと動くだけで解決する事がものすごく多い。
ウッズやシンプソンがまさにそうだけど、自分は「アメリカンヒーローは失墜しなければならない」と心のどこかで思ってる気がする。自分のアメリカのイメージは「合理的でポジティブでジャイアン」というものだが、加えるなら「寂しさ」がある。アメリカンヒーローは前向きゆえにどこか寂しい。
もうちょっと年季の入った国だったら、そういう寂しさにもこなれてきて「頽廃」のフェーズに入ってくるんだけど、アメリカにはそういう「滋味のある枯れ方」の気配を感じない。ただただ負け方のへたくそな感じ。
長編小説の終わりは寂しさがつきまとうね。あんなに厚かったのにページがもうこれだけしかない。読み進めたい、でも読み終わりたくない。アンビバレンツ!
「寂しくなくなるにはどうしたらいいですか」という問いの答えは、「寂しさというものに対する認識を変えること」だと思う。いま遊ぶ人がいないから寂しいと思うのでなく、常に誰かと一緒にいる状態が普通ではないと知ること。自分以外の価値観がたくさんあって、しかもそれは決して珍しくはないこと。
開発による自然破壊が謳われて久しいけどさ。信号もおぼつかないような田舎に生まれた者として言うと、自然と暮らすというのは「人が少ない寂しさと暮らす」ということでもある。夜なんか本当に漆黒だし、静寂だし。人間は便利さ云々だけじゃなく、そういう寂しさを嫌って街をつくったんじゃないか。
世の中の多くのものは「寂しさを埋める」「暇をつぶす」という目的でできている。
諦観とは仲良くするようにしないと、いずれ寂しさに押し潰される。
寂しさはプライドでは埋まらない。
長文は情熱、語彙は知性、頻度は寂しさ、フォロー数は体力、アイコンはセンス、何を書かないかが品性。
「人生の本質は暇つぶし」なんて言うけれど、つぶしているのは暇じゃなくて、実は自分の寂しさだったりするんだよな。
コンビニかスーパーのあのビニール袋が風に吹かれてカサカサと飛んでるのって、それだけで寂しさの記号になっててすごいと思う。
「優しい」と言われる時に感じるあのかすかな寂しさは何だろう。
経済的な豊かさというのはかなりの部分で時代に左右される。いい時代、右肩上がりの無邪気な時代の情報をなまじ持っているだけに、前提として寂しさというのがいつも微かにつきまとう。
というか、あの時代のいわゆるアメリカン・ニューシネマって絶望的な寂しさにあふれていて凄いよね。「卒業」のラスト、バスの中の二人の不安がよぎる表情、「ミッドナイト・カーボーイ」のインサートされるトラウマのフラッシュバックとか。「イージーライダー」の明るい要素の何もないラストとか。
豊かさや快適さはある種の寂しさとセットでしょう。
つまり寂しさを何でどう埋めているかが、その人。
メインにはならない、その代わり深い寂しさもない、そんな「福神漬」のような生活がわたしの望みだったのに…。
人が意志を強く押し出して、その自意識のもとに作った街は、シンプルな美しさと引き換えに寂しさがある。雑多で重層的な街は寂しさはないがゴチャゴチャする。日本人は多分寂しさを嫌ったんだ。
八百万の神のようなアニミズムを日本のメイン宗教だとするならば、それはコミュニティを生まないので、人の寂しさを埋められない。人にはコミュニティが絶対に必要で、そこを埋める存在としての宗教がある。もちろん仏教等いろいろあるが、無宗教を標榜する人が圧倒的に多いわけだよね。
「好奇心」「享楽性」と「寂しさ」の決定的な違いは、キーワードとしては「依存」ということだよね。
寂しさを埋めるために問題を起こす人、か。
自分以外の人間への過剰なコミットは、寂しさとか虚しさにその正体がある。
ラジオはやっぱりガチャガチャしていてうるさいと感じる。テレビと同様、パッシブに楽しめる寂しさ解消メディアということであれば、賑やかなほうがいいんだろうけどさ。
自立って寂しさに耐えうること。
だいたいの習慣や執着は、寂しさの埋め草。
人は寂しさを紛らわすために、わざわざ自分が傷つくような言動を相手に仕向けることがあります。精神の自傷行為。
不安、寂しさ、恐怖、このあたりへの反応のタイプで、人は分かれる
Twitterのような「本来なら絶対居合わせないような人とコミュニケーション可能になってしまう場」があることで、常に意見のぶつかり合いができてしまう。違う意見の人を否定して寂しさを埋めるタイプの人には、いい玩具でしょう。
でも寂しさは苦痛よりマシ。
一人で行動できる人というのは寂しさに強いようでいて、結局のところ一人でも他人を求めて動いている寂しがりや。
「一人で飲みに行く人は結局、人が好きなんですよ」と言った人が昔いて、そうかもしれないと思ったが、今それについて思うのは「人が好き」というよりも 「自分が好き」なんだということ。なぜならその「人恋しさ」が求めているのは不特定多数あるいは少数であり、ケアしたいのは自分の寂しさだから。
対特定個人ではなく誰か、というのは結局自分の心の寂しさを埋めたいということだ。自分の中に相手がいないんだよね。
でも自分はひとりして飲みに行ってたほうなんで、寂しさが云々というのは自分ごととして、別に否定しないという感じ。他人に「お前は結局寂しいんだな」と直接言われるのは不快なものなのだが、一般論としての「真実のようなもの」は人の感情とは別のところにある。
気楽と寂しさは裏腹。
高度に複雑化された寂しさは、疲れと区別がつかない。
閉じたシャッターの前をスーパーのビニール袋が風に舞うこと自体に寂しさを感じるのか、それとも閉じたシャッターの前をビニール袋が舞うことが寂しさの表現だと我々が知っているから寂しくなるのか
人間関係がどんどん広がっていって寂しさがまったくない、というのもいびつだなあ。
自分以外の何かにオーバーコミットして、その対象をずっと許せないと思う、何かを言われたりされたりしたわけでもないのに感情からリリースできない、そういうのは本人は認めるわけがないけど、自分の人生に退屈と寂しさを感じてる人なんだよ。
退屈と寂しさを感じてるってのは、精神的な自立についてまだ弱いの。自分と他人の境界がまだどこか曖昧なんだよね。
寂しさに「事件」は起こらない。事件が起こらなければ他人からは見えないから、寂しい状態というのは平安に似たものがある。
リスクを手放して寂しさを得る、それは効率主義の弊害でもある。リスクが発現された瞬間というのはすべてを終わらせるかもしれないが、人生の中身は巷間言われるようにプロセスそのものにあるし、目的のためにディテールを犠牲にしたとしても、プロセス自体に得心のいくものでなければならないよね。
いじめた側の人間も猛烈ないじめに過去遭っていたり、家庭環境に非常な機能不全を抱えていてどうしようもない寂しさが暴力となって発現されていたりというのは実際多いらしい。根本解決には心の問題が不可欠だ。しかし暴力はそういった感傷や同情の余地といったものと切り離されて存在する。
あなたの怒りはどこから?「私は寂しさからー!」「私は虚しさから!」「私は疲れから…」
腹を立てるくらいなら離れればいいと思うのに、そうもいかないのは、怒りより寂しさのほうが耐えられないからだろうか
ナルシシズムはあったほうがいい。寂しさに対抗できる。
一人暮らしの年末、どこまでも自由な感じだったが、それは今思うことであって、実際は時間の持て余しとか寂しさとかが当時は勝ってたはず。
寂しさと敵意はセット、一片の敵意も抱かずに寂しさに耐えるのは難しい
人は寂しさを埋めるために実にいろんなことをする。
ソーシャルでよく見かける「寂しさビジネス」みたいなのも唾棄したい。
なるほど寂しさと怒りは実は同質なのね。
「怒っていると寂しくない」か。一方で、「寂しさは怒りに転化する」というのもある。
積極的な人とは、寂しさに耐えられない人とも言える
人が「不満がある」という場合、その中身はおそらく寂しさだ。
攻撃したり他人へ何かを要求する、これは自分の今の状態で完結できていない、虚しさや寂しさといった精神の穴を埋めたいというだけのことで、体系も何もかもすべてがそのエクスキューズにしか見えない。寂しいって言えばいいのに。
寂しさは飢えに近い。
攻撃性は、虚無と寂しさではないかな。
虚無感と寂しさ。それは可哀想というよりも、誰しもが陥る可能性のある精神の状態だと思うが、なんにせよ、そういうときにどう振る舞うかで人の価値は量られたりするのでな
でもいたたまれないのは、そういう人は、例外なく強烈な寂しさがあるんだと思う。相手の人格をくさす攻撃的発言も、聞き苦しい罵倒も、わけのわからない独善的な理屈も、つまるところ「寂しい」の言い換えみたいに聞こえる。
祭りが好きなのもそうだし、ヒステリックな国民性も、ヒステリーというものが寂しさから来ることであることを思うと、合点がいくよね
たいていのことは実は寂しさドリブンである
宇多田ヒカル、どれだけ華やかな光を浴びても少し寂しさがある感じがいい、勝手な印象だが
都市生活者の社会と、自分の生家みたいな環境とは同列に語れない。「テレビかご近所の人」が世界のすべてみたいな状態だと、定期的にお寺に行くとか、みんなで山に登るとか、そういうイベントが寂しさを埋める大事な要素になる。
寂しさって人を狂わすよね。
退屈を寂しさと捉える人間にとって、破滅は退屈から遠いので、実は望むところなのかもしれない
憎しみながら依存して、寂しさから逃れる代わりに、人生をだめにするのさ
美しさって寂しさだよな
人の持つ「寂しさという宿痾」は侮れないと思っていて、自死はもとより、社会的な犯罪も、精神的な不調和も、つらみ全般が、実は広義の「寂しさという宿痾」によって引き起こされるのではなかろうか。そしてこの問題に対して、SNS、特にTwitterは、そこにいくばくかの救済を見出せるのか。
「文字文化にどれだけ依存できているか」は言い換えれば「人は文字のやり取りのみで寂しさを埋められるのか」という命題だと思います。会わなければ救われないという人はきっといるのでしょう。そこの部分の肯定否定は、日常におけるtwitterの意義と動機そのものに関わる部分だと思います。
自分を低く見るのがダメなのは、相対的に他人が高く見えて嫉妬が生まれ、置いていかれたような気持ちになって寂しさが生まれ、寂しさは構ってもらえなかった記憶を誘発して怒りを生み、怒りは身近な人のところへ正当化された上で向けられ、争いを生んだりする。
怒りを本音だと思っている、他人のツイートにウザ絡みしてもインプレッションを欲しがる、コミュニケーションに相手の感情という要素がない、語尾や絵文字でキャラを作りたがる…もう虚無感がすごい。寂しさを埋めるのに精一杯でなおかつ、寂しいと自己認識したくない人。自分自身を見たくない人。
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15年の区切り。
http://kakiwo.exblog.jp/238416907/
2018-03-23T16:06:00+09:00
2018-03-23T16:06:37+09:00
2018-03-23T16:06:37+09:00
Shinobu_kaki
ライフ イズ
退社日はもう少しあとだけど、
有休消化を含めると、今日が最終出社日。
誰に話しても「15年は長い!」と驚かれるね。
確かに、ひとつの会社にもっと長く勤めてる人はざらにいるけれど、
それでも15年といえばちょっとした歳月。
単純にその時間の長さにしみじみ感慨を覚える。
15年前はまだこのブログだってなかったしね。
挨拶にまわって、引き継ぎをして、
データを片付けて、机まわりを綺麗にして。
家に送る荷物も手配して。
なんだかどっと疲れてしまった。
少しだけ休んで、次に行こう。
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魂の救済。
http://kakiwo.exblog.jp/238377506/
2018-03-08T09:35:00+09:00
2018-03-08T10:24:30+09:00
2018-03-08T10:21:28+09:00
Shinobu_kaki
ライフ イズ
まず、人は自選的に生まれてくるのではない。
そんな「負わされた生」を自分のものとして受け入れる、
その一連のプロセスが生きるということだと言える。
さらに生まれた国や時代、家庭環境などによっても
大きく変わってくるのが人の生であり、
それは本人のせいではありえない。
しかし日々に不遇、不運、不本意、不平等、不協和は起こり、
我々の魂はその都度、痛み削られる。
例えば早く死んでしまった人は不幸なのか。
早逝は気の毒だし不遇であろう。
しかしそれだけで不幸だったと決めつけるわけにはいかない。
長く生きていたって不幸な人はたくさんいるし、
むしろ生きる長さに比例して、嫌なことの数は単純に増える。
例えば暴力に晒されたり、虐げられた人は不幸なのか。
こういう人生は確かにつらい。
平穏な人生とどちらを選ぶ?と言われたら、
前者を選ぶ人はいないだろう。僕だって選ばない。
しかしそれだけで不幸と決めつけるわけにはいかない。
いや、人生という意味では確かに不幸だ。
だがそれで、その人自身に価値はないのか?というと、
そんなことは絶対にない。
そういった不遇は、本人ではなく環境の問題、
外的要因に過ぎないからだ。
外的要因と人の魂はまったく関係がない。
往々にして、人は苦しみが多いと、
自分の人生に価値はないと決めてしまって、
前向きに生きることを放棄してしまう。
だが先ほど書いたように、
自分の価値と不遇な環境は相関がないのだ。
これは人の「不協和に耐えられない」という性質がそうさせると思っていて、
不遇な自分は不遇にふさわしい人間であると、
頭で辻褄を合わせて認知してしまうのだ。
だが感覚、本能はそんな嘘を許さない。
だから引き裂かれてつらくなる。
どんな不遇にあっても魂までダメになるわけではない。
それがダメになる瞬間があるとすれば、
それは、自分が受けた被害によって自らを犠牲者と断じ、
他人に同様の加害を加えはじめた時だろう。
かわいそうな自分にはその権利があると、
他人より自分が不幸なのは許されないと、
他人がそれぞれどのような不遇と戦っているかも知らずに、
自分自身だけにフォーカスして害をバトンした瞬間、
その人の魂は地に落ちるだろう。
そうしない、というのは戦いだし、
その戦いこそが自分に克つことだし、
何があっても自分を蔑まないことが価値だろう。
それだけでその人の生は意味を持つ。
不本意に負わされた生の中、
外的要因によって傷つき疲れ果てた魂は、
自分の内部からの認識と姿勢と志によって、
充分に救済され得るのだと言いたいのである。
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「幸せ」について。
http://kakiwo.exblog.jp/238372673/
2018-03-05T20:24:00+09:00
2018-04-14T22:49:50+09:00
2018-03-05T20:24:57+09:00
Shinobu_kaki
言葉は踊る。
メモです。長いです。
幸せとは、ディテールのことである。
「1時間幸せになりたかったら、酒を飲みなさい。3日間幸せになりたかったら、結婚しなさい。1週間幸せになりたかったら、豚を殺して食べなさい。一生幸せになりたかったら、釣りを覚えなさい。」
夢中になれることがあるのは、とんでもなく幸せなことだ。
「これを抱いて死ねる」ってものがあれば凄く幸せだと思う。でも、そんな人はなかなかいないよね。選ぶってことは他を切り捨てるってことだから、そこまで綺麗に他の可能性を無にする強さってのはなかなか持てないもんだ。自分も「これ1つだけ」ってのは選べない。
愚痴を聞き苦しく思うのは、人と状況の関係が個人的なものだからかな。絶対値としての辛さや幸せというのは無く「その人がどう感じているか」があるだけでしょ。「自分が世界と折り合いがついてない」という告白を聞くわけで、言われても自分には何も出来ないのが愚痴だから。聞く方も無力感だ。
幸福の基準は人によって驚くほど違うし、同じ人の中でも移ろっていくからやっかい。1年前の「これがあれば幸せ」も、1年後にはどうでも良くなったりする。手に入れたら「あれ?こんなもん?」ということだってある。きっと幸福はいつも、伸ばした指のほんの少し先にある。
赤坂真理によれば「モテ」ってのは「関係性(特に異性との)において優位に立つこと」だそうだが、確かにモテるってのは非常に大事なことだけどさ。その部分に腐心できるってのは幸せというか、そんなに切羽詰まってないというか。もちろん本人は必死だろうけど、衣食住的には足りてる感じするからね。
リアルタイムで評価される芸術家って幸せな存在なんだろうね。死んでからレジェンドになっても生前困窮してるんだったら人生としてどうよ、と思ってしまう即物的俗人的なワタクシ。でも、芸術家は自分の意識の波打ち際でいつも悶えているイメージで、評価に甘んじてる時点で芸術家ではない気がする。
「これさえあれば自分はほぼ幸せ」というものを持ってる人はいいよね。
たとえ何かを為さなかったとしても、態度がいつも上機嫌で、ゆったりとした物腰を終始保つ事ができたなら、その人は十分凄い人だし、まわりを幸せにしていると言えるはずだ。
夜のビール、朝のコーヒー。これで結構幸せ。
やさしさとかユーモアのない頭の良さは、あまり人を幸せにしないと思うのよね。
あの「ニャホ・ニャホ=タマクロー」をはじめ愉快な名の人を輩出しているガーナだが、ガーナ代表の試合を見ていて「ピンポン」という選手が途中交代で入ってきた時には、何だか幸せな気分になった。
自分の住まう土地を愛せるのは、とても幸せなことだ。
「普通の幸せ」はあるが「普通の不幸せ」はない。幸福は抽象的で、不幸はいつも具体的だ。
人は誰でも幸せ探す旅人のようなものなんだよ。確か。
足るを知らないやつはもしかしたら昇り詰めることができるかも知れないけど、自己充足がないという意味でなかなか幸せにはなれないだろうね。
責任が多い人生は、きっと幸せなのだろう。
自意識過剰な人は幸せだ。
自分以外の何かに、常に興味が向いている状態を「幸せ」というのではなかろうか。
「リストラ」と聞いて真っ先に「リストランテ」を思い浮かべる人はきっと幸せだ。
最終的に問われるのは、「そのやり方は自分や人を幸せにしてるか」しかないと思うよ。
人って「まわりが優しくあればいい」ということはあるでしょう。まさに子供がそうだと思うんだけど、大人から見て環境スペックがどうとかレベルがどうとかいう比較意識は子供には関係なくて、まわりに笑顔が多ければそれだけで幸せを感じたりするものだと思う。だから上機嫌であることは非常に大事。
過去の地震速報の最後に、おまけのように付け加えられる「なお、津波の心配はありません」というアナウンスを当然のように感じていた。あれは幸せなことだったんだな。
臆病になれるってのは、幸せなことなんじゃないかと思ったな。失いたくないものが今あるってことだから。
長く生きることは素晴らしいけれど、本人が精神的に充実していたと思える「瞬間」を持ちえれば、長短に関わらず幸せと言えるかもしれないじゃない。それは意外と「平等」のひとつの形かもしれない。
なんか、自分のことを知ってくれてる人が増えたというのは幸せなことだ。この幸せをかみしめて眠ろう。おやすみなさい。
「これがあればまあ幸せ」って人によって違うじゃない。
幸せの定義なんて多種多様だけど、ひとつには「平凡でありつつ、なおそれを良しとする心性」を持つことではなかろうか。
フェティッシュ、偏愛的な人は幸せだと思う。少なくとも何かに殉じている。
「これがあったら自分は、まあ幸せ」みたいなことがあったら大事にしたほうがいい。あと、一日の中に一回でも必ず好きな時間を入れるとか。ほくそえむような時間。
「自分は周囲に恵まれている」と思える人は、むしろその人が周囲を幸せにしている。これは間違いない。
幸せの定義はズバリ、「不幸せでないこと」。
「一番いい状態」がそもそも幻想というところから始めないと幸せにはなれない。絶対になれない。
「選ぶことができる」のは豊かだけれど、「選ばないでもすむ、探さないでもすむ」というのもひとつの幸せな状態ではある。
シンプルに言えば、自分を省みる時間が少なければ少ないほど「幸せ」。
人は一人では不幸になれない。望むと望まざるとに関わらず絶対に周りの人を巻き込む。人は幸せになる義務があるってのはそういうこと。
手に入れたものしか幸せとは呼ばれない。
「人を幸せにしたかったら、まず自分から幸せになりなさい」だよね。
「誰々より誰々のほうが大変」みたいな観点でものを言う人に、幸せそうに見える人はいない気がするな。そういうタイプは「カンダタの足の下」だ。
自分がサッカー選手だったら、どのへんのクラブに入るのが幸せか妄想している。
「共同体が良くなれば構成員は幸せになる」と「一人一人が恵まれていかなければ全体が良くなるはずはない」というのは相反する思想。目指すゴールは同じなのに相容れないという不幸。
自分以外の、周りの人たちがみんな幸せになるといい。そうすりゃ結局自分だって幸せだろう。
「幸せ」ってニュースにならんよね。
グルメって、目利き。それゆえ不幸。何でも美味い美味いと食べる方が、本人はうんと幸せなはずだし、周りも幸せにしていることだろうさ。
優しくて、公平であろうとしている人には、ぜひ幸せになってほしいよ。
キーが生産性ならば、趣味を仕事にした時点で趣味がひとつ消えることになる。その時に「趣味としていたもの」との関わりかたがガラリと変わってしまう。ただ幸せか不幸せかといったら、それは幸せだと思うな。楽であれ苦であれ、好きなものに殉じることができるのだから。
「蒙昧な信者がもっとも幸せである」とことわざにもあるように、スペッキーなプラマイ計算の延長線上には幸福感は存在しない。や、ことわざは今思いついて書いただけの嘘ですけども。
古いことわざに「勝訴した者よりも裁判を知らぬ者のほうが幸せである」というのがあるけれど、いやすみません今思いついた出まかせですけども、そういうのってあるよね。
事実はひとつだが、真実は人の数だけある。その検証は誰にもできない。そして「誰が何と言おうと」と思えるというのは、この上なく幸せな姿勢と言える。
知らないことって欠落感だけど、知らぬが仏的な幸福もあるのと、さらに言えばこれから知る楽しみが残されているとも言える。あれもこれも知ってるという状態が幸せか
どうかはわからない。性格にもよるだろうが、他人の経験を侮りやすくもなるだろうし。
政権を獲る前のクーデター軍が一番幸せ、みたいな話を思い出す。
美しさを感じるのってノスタルジーというかコードだから、自分の中に響く素材がないと感じられない。で、そういうコードはたくさんあったほうが当然幸せというか豊かだと思う。なので若い時に色々やっておく、見ておくというのは理にかなってるように思えるよね。
「搾取されない程度の鈍さ」が一番幸せだろうと思えども、そもそも自明的な鈍さというものがあるのかについての議論はある。
時間という絶対不可逆なものに照らすと、お金というのは下位概念というか要するに手段に過ぎない。自分にとってナイスで快適な時間の過ごし方を知っている人は、それだけでひとつ幸せと言えると思う。
娘には幸せになってほしい。
幸せっつっても曖昧だけど、要は「周りに恵まれること」と「そこそこ足るを知ること」だと思う。…難しいけどな!w
俗に言われる「普通の幸せ」とは高度成長期の価値観における「普通」なので、基本的に収入は右肩上がりだし物質的には豊かになる一方という前提のそれなので、今の時代においてはものすごい贅沢な幸せのビジョンということになる。
「普通」なんてぼんやりしたことを言えていた時代のほうが幸せには違いない。
幸せな人は「幸せ」という言葉を必要としないものよ。
まあ諦観を持った方が幸せではある。あまり早く持ちすぎるとアホだけど。
自分の田舎を愛していて、生涯住めると感じられるってのは幸せだよね。自分は何と言うか無理だものなあ。
なるほど選択肢ができるということは幸せなことだけれど、迷うというストレスが発生する。
「違和感を持つことは幸せだ。そこに世界を集約して感じることができる。居場所のなかったことは幸せだ。どこへでも行くことができる」赤坂真理
「大切なのは、そこに住んで『幸せ』かどうかです。幸せであれば、居住価値は生まれ、資産価値以上になります。そうでなく家族が離婚・離散し分譲住宅は売却に出されると、その瞬間から金融商品となり、居住価値は消えて収益価値のみとなります」
メリットデメリットで判断しなくなったら、対象と殉ずる腹ができてるってことで、それは幸せな状態と言えると思う。
でも何と言われようと、自分は自分自身を含めて幸せにしようと思ったことに対して躊躇はしたくないので。
最近思うのは、適切な大きさの問題があるという状態が、実は誰にとっても幸せなんじゃないかということ。
「生きてて良かったと思える瞬間が多いほど幸せ」と言うが、自分はそんな風に思うことはそれほどなくて、「今のこの時間がずーっと続くと幸せだろうな」というのは結構ある。むしろ自分の幸福感の基準は後者かもしれない。前者は自分の定義では幸福というより快楽的。
人が「誰かを幸せにする」という言い方をする時は、相手の自意識まで責任を持つってことじゃなくて、「幸せな状況をプロデュースする」くらいの意味だろう。
一般に言われる「幸せ」って、つまるところ関係性に潜むものだよなー。
自分の思い通りの人生を歩むことが幸せ、ではないんだよなあ。もちろんそれは負荷が少なくてとてもいいのだけど。
少し無神経なほうがラクだし、バカなほうが楽しいし、知らないほうが幸せだったりもする。もちろん程度によるけれど。
損得に縛られると幸せが小さくなる。
あと、ブログを書き続けたことはとても幸せだった。
「自分で選ぶオリジナルな幸せ」って実は無理なんじゃないかと思う。美しさもそうだけど、実は今まで生きてきて得られたパターンもしくはエッセンスの中にしか、人は良さというものを感じないのでは…と思うのである。それは物理的メリットデメリットなんか問題にならないくらい大きいことだ。
がんばる動機があるのは幸せ。
短いスパンでもハマれるものがあるのは幸せ。
自分自身だけの可処分所得、言わば「遊ぶ金」が多いほうが幸せ、という価値観もちょっと貧弱だなあと思う。
雑駁な話のようだけど、「知らない方が幸せ」というのは割と真実。
「パトラッシュ…僕は見たんだよ…一番見たかったルーベンスの2枚の絵を…だから、だから僕は今凄く幸せなんだよ…。パトラッシュ、疲れたろう。僕も疲れたんだ。なんだかとても眠いんだ…僕たち絵描きの卵ってそういう仕組みだったんだね…あたしって、ほ ん と バ カ 」パト「お、おいネロ!」
つまり「将来は不安要素満載だけど、今はいいから幸せじゃん」というのは幸せではないのだな。
「で、どんな幸せがいいの?」
わがままな人間はわがままに振る舞ったほうが長い目で見ると自分も周りも幸せ。
「あとは頑張るだけ」という環境って、実は幸せだったりする。
とはいえ具体的な悩みがあるのはまだ幸せであろう。問題が具体的ということは、答えの存在もある程度具体的に見えているということだから。
頭だけで色々考えるだけなのが良くないのは、幸せの正体が「不幸な出来事のない状態」ということによる気がする。つまり幸福感って具体的な形のないものだから、頭で考えることがなかなか難しい。考えるというのは「具体的にイメージすること」でもあるからだ。
問題は、自分がどうあれば幸せかを完全にわかってる人なんてそれほどいないってことなんだ。
「平和」の定義は「穏やかで幸せな時代」ということではなく、狭義では「戦争のない状態」なのだそうだ。
「自分なりの考えとか現状への疑いとかいちいち持たなくていいから、とにかくがむしゃらに頑張れば豊かになれるし幸せになれるんだ」という価値観、けっこう怖いよね
。
喜んで損できるものがあったほうが幸せに決まってるじゃない。
「この一杯を飲み終わるまでは少なくともこの場にいられる幸せ」という感覚が好きだった。
「面白い!」とか「美味しい!」の沸点は、低いほど幸せ。
「幸せとは?」を問う行為は幸せとは言えないのでおすすめしない。
家族と、酒と、風呂と、歌と、本と、映画と、友達と、おいしいご飯と、耳かきと、ネットがあればだいたい幸せ。
雨の日、欲しかった新刊を買い込んで、カフェで静かな席と飲み物を確保して一息つく、これは幸せだよね。
「なんでも数値化してわかったようになるのはやめましょう。数値化は比較のためのものですが、比較で得られる幸せは、さらに高いスペックのものが現れたら直ちに崩れ去る脆いものです。」暮らしのヒント集bot風
悩みって、その人の中でのイメージと現実のギャップってことだから、期待値をどこに置くかによって幸せかどうかはすごい変わるよね。
ホント言うと君らが幸せならとーちゃんはのたれ死んでも別にいいや、と本音の部分で思いつつ、でもそういうことじゃないしなあと思ったりもする。やっぱ人間たるもの自分がまずありきってくらいのエゴがないと変だ。
現状肯定が幸せへの道であることは間違いないのだが、向上心という名の成長信仰がそれを阻害する。
見知らぬ赤ちゃんを見かけると、心の中で「幸せになってね」と呼びかける何かの症候群に罹患してる。
結局のところ、自分がどんな人間かどんな風に見られがちな人間かがわかっていて、自力であれ他力であれ、それを可能な限り良い形で発揮できる環境を整えられるというのが、いわゆる幸せになる方法ってやつでしょう。
でも思うんだぜ、深夜に何かが食べたくなったとしても、小銭を握って少し出かければ容易に食べ物飲み物が手に入ることの幸せよ。
自意識過剰は、まあ本人は幸せだったりする。
リスクを取ってそれを選んでも幸せそうになれる気がしないとかね。でもどちらかといえば自分は、ひとことで言って「選択肢が増えたから」に集約される気がします。
「こうすりゃ誰もが幸せだ!」という方策はまずなくて、どうすれば全体としての傷が少なめで済むか、あるいは誰もが許容範囲内の我慢を共有することで極度に悲惨な事例をひとつでも減らせるかという。
ビールは最初の一口が幸せだけれど、日本酒は二口目以降が主に幸せ。
変な話、仕事が担うのはその人の幸せのどこまでの部分かってことでね。趣味人も含んで一般化するなら仕事はあくまで経済的な部分を担保するのだというところまででね。あとの個人の思い入れまではケースバイケース過ぎて何も言えないという
「あれ、本当は何をしてる時が幸せだって思ってたんだっけ」と時々自問する。
君たちの幸せがパパの幸せです。プラス、自分なりの幸せもちゃんとわかってるから大丈夫です。
追い続けてもあまり幸せにはなれない。別の井戸を掘るべき時もある。
物欲がある人は幸せである。世の中の、新しい欲望喚起の対象に常に触れているからである。
何につけても本質的なことを考えずにやっていけるポジションが幸せなのだし、人間としてはダメだけど、幸せって「ダメが許される」ってことでもあるから。
自分が幸せかどうかを問う行為は、おそらく自分を他人事にし過ぎ。
自分自身のことだったら、本来は幸せも何もない、ただ生きるってことしかないはず。
今朝は何だか気分がいいのは、晴れてて暖かいからか。天気のいい国に行けば、それだけで俺は今より幸せになれるんじゃないだろうか
確かに、幸せになるのにお金がかかるというのはある。というか、幸せと言われる基準が概ね、お金のかかるものばかりになってる。
分析しないのもアホだけど、分析的になりすぎるところにも今の幸せはないよね。
徒歩10分圏内に一応何でも揃う商圏があるってのは幸せかもね。
知ってたけど、なかなか留保なしの幸せって難しいもんだね。
「いつか○○したい」という思いを抱き続けていられたら、それはもうそれだけで幸せなのではあるまいか。
承認も含め、他者の働きかけを必要としない人が豊かなのであろう。ただ幸せかどうかはわからない。幸せは関係性に宿ると思うので。
幸せとは、不自由のこと。
誰も彼も大差ない。近視眼的になるとそれを時々忘れる。そして近視眼的なほうが幸せだったりする。
「私はいま幸せ」と自分で言うと、不幸せとの一時的な比較っぽく聞こえる。少なくとも留保なしの幸せという感じがしなくなる。自分のことを幸せと断じていいのは、他人か、時間軸的に実質他者となる未来の自分だけであろう。
自分で上手いとわかっているから楽しめるというのもあるだろうし、好きだから上手くなれるという相関もあるだろうけど、とにかくそのジャンルに対して幸せな関わりができてる人なんだろう。
選択が愚かでも、理解されなくても、自分なりに幸せになりましょうよ
悩む権利があるのは、本当は幸せなことなんだけどね。
幸せな人というのはめったにニュースに出てこないからね。
「幸せの手の大きさと握力」「見た目がいい人はモテやすい。なので相手を見つけやすい。手が大きいからものをつかみやすい。一方、いざ結婚して幸せであり続ける能力というのは別で、いくら手が大きくても、握り続けていなげれば幸せはこぼれ落ちてしまう」は、比喩としてかなりいいね。わかりやすい。
人生なんてどんな形だってアリなはずで、その時の経済に左右される。今の日本だとおそらくリスク対策重視のほうがよくって、子供も住宅も「負担」は持たないほうがベターかもしれない。ただ皆がそれを選ぶとじわじわと社会が滅ぶし、やはり子供の頃から刷り込まれた幸せのイメージというのは消えない。
リスクの計算はできても、幸せの計算はできない。ここにすべてのスタートがある気がする。賢く計算を重視する人生観だと、無謀がなくなる分、その人の人生の面白さみたいなものは構造的にシュリンクする。
「俺が若い頃は…」「いや、だからあんたは今より幸せな時代の子供だったんだよ、それだけなの」
幸せ用ザク
厳密さは幸せから遠くなる。幸せとは一種の思考停止でもある。
山岳部だった頃、雨の日の山小屋待機とか、妙にわくわくしたものだった。あの守られてる感。今の荒天における自宅での時間も感覚としては近い。食い物もあるし、飲み物も家にある。ネットも繋がるし。幸せとは比較から生まれるのだ。
1人の中に世界は2つは必要だが、できれば3つあったほうが幸せだろう。
どうも「突出しないこと」が世間でうまくやってく秘訣になっていて、何をするにも罪悪感がセットになっている感じある。つまり幸せを得る時には、バーターとして何かひとつ不幸が必要で、それがないと世間の承認を得られない構造。
時代とか世代とかそういった大きな枠が、個人の幸せとか豊かさを決定的に規定してしまう。昔はそんなふうには思わなかった。
自分の欲望に人を付き合わせることがニガテだが、これができると幸せ度高い。
「自分と関わった人はみな不幸になる」は、「自分は出会った人すべてを幸せにできる」と、言ってることは同じ。
不幸を機会と定義すると、生まれてこなければ不幸に会う機会もないので、生まれてこないほうが幸せ、となりますね。
幸せの正体って、殉ずること。たぶん。
話題はくだらなければくだらないほど、「幸せ確認」になるからいい。
日本の生活は核家族に優しくない、だが家族が増えるほどコミュニケーショントラブルの種は増える。どちらが幸せかはわからない。ほとんど各人それぞれの忍耐に一任されている。
ワインのある店で飲むとき、グラスで飲んでて、テーブルにボトルがある、その状態が幸せと感じる。
何のために働いてるのかわからなくなるくらいのハードワークが幸せなわけはないよなあ。
流れの中の無力感、を感じるほど幸せという構造はある。
「生きてるだけで丸儲け」という思想は、かなりの諦観のもとに成立している。幸せな人はそんなことを考えたりしないからだ。
「気づき」など得ないほうが、当然幸せ。
昔話の終わりの「いつまでも幸せに暮らしました」って何か原型のクリーシェがあるのかしら
ひまつぶしの上手い人が、幸せな人。
幸せかどうかって、自分申告でかつ他人に納得できるロジックがあればいいんじゃないかな。自分でそう言っていて、他人も認めてくれるだけのプレゼンテーションができれば、その人はもう幸せ。
早死には、ある意味で本人は幸せなんじゃないかという気に時々なる
他人の行動や選択を「許さない」というのは同調圧力の負の側面で、当たり前だがそれは誰も幸せにしない。
アウトラインを自覚した時点で「幸せ」と呼ばれるものではなくなる、というのは持論ではある。幸せは自意識とは無縁なものだ。
コンプレックスを感じなくなるまで(代価的な)何かである程度以上満たされた状態、ってのは幸せなことであったのだな。
「もしもあなたが、『幸せを感じられるのは週末の間だけだ』と思うなら、新しい仕事を探すほうが良いかもしれません。良い仕事に恵まれている人は、週末にそれほど喜びを感じないという研究結果も出ています。これは単純に、平日が楽しければ、週末の必要はないという理由からです」
幸せな状態ってのは、身の回りに好きなものがたくさんあるか、すごく深く好きなものがある状態のことであろう。
幸せとはタスクの数と質、つまり不自由さのことである
生き方は一般化できない。自分に合ったカスタマイズを行うことしかできない。いかな成功者のノウハウでも、それによって誰もが成功するわけではないし、仮に成功したとて幸せが保証されるものでもない。ゆえにあらゆるエピソードにはこの一文が隠されているのである、すなわち「※個人の感想です。」
「この瞬間が永遠に続くといいのに」という時間を多く持つことが幸せだ。
人は幸せになるために生まれてくるのではなく運命をまっとうするために生まれてくるのでござるの巻 #誰
尊敬されることが幸せなのではなく、尊敬できることが幸せなのだ。
すごい人になるよりも、すごいと思える人をつくるほうが、うんと幸せだし、たぶん簡単だ。
「健康で、ある程度食べられていて、上機嫌」だけ、だとまだ「不幸」のカテゴリに入るのかもしれない。幸せって結局、関係性のことを指してる。
極端な話、死ぬまで周りの人たちがずっと優しかったら、その人は幸せである確率は高いんじゃないかと思うんだよね。
なんのために生まれてくるかというのは、別にそれぞれ個人の幸せとか充実のために生まれてくるわけではなく、社会とか文明を前に進めるために「人足」として存在するのではないか。その中で個人の幸せを勝ち得る人は、相当上手くやったか、ラッキーな人であるとかね。
本読んで、時々映画観て、なるべく健康で、多少ビールなどお酒が飲めて、ネットはオンラインで、高価ではなくていいから好きなものを食べられて、時々国内旅行ができて、気が向いた時に散歩やジョギングをして、風呂に入って眠れたら、ほとんど言うことない。ほっとかれても幸せに生きてると思う。
「生きてて良かった」と思える瞬間をいかに持つかが幸せの定義だとするならば、死にそうな目に何度も遭った人のほうが幸せということになってしまうな。
シリアスをちゃかせる人は、幸せレベルが高いんだな。
最近あらためて思うのは、自分に嘘って絶対につけない。もし自分のやってることに不快さを感じたらそこに嘘がある。自分の中に嘘があると、相手には無意識の不快感になって伝わる。結果誰も幸せになれない。嫌われてもいいから正直に。
この子をなにとぞ幸せに
王様になりたいわけじゃないからなあ。幸せな奴隷ならそれでもいいと思ったりする。
特に、憎しみの感情がある時に幸せそうにするのは難しい。
自分の態度が他者の感情を受け入れるかどうかを規定する、つまり自分の態度が自分の幸せを決定する
人生を他人のせいにしているうちは、絶対に幸せになれない。
異様に若く見える人は「嫌なことをやってこなさすぎた人」だと思う。それは幸せでもあるが、当然欠落である。
人間の一番の美徳は素直さを持つことで、もし幸せになる方法なんてものが仮にあるとしたら、それ。
「知りさえしなければ幸せでいられる」というフォークロアを俺は信じているんだ
努力で人は幸せになれない。というか、努力と幸せは相関がない。
子供の頃どういうのが幸せだったかとふと思い出したけど、夏の夕方に早めに風呂に入ってさっぱりして、晩飯前に家の周りをぶらぶら歩くのとか、なんだかとても幸せだった。ヒグラシの鳴き声がして。
だから、バカほど幸せということ。
いつも書いてるけど、なーんも書く事のない人のほうが幸せなの。愚痴だけじゃなくて自慢もそう。なーんも書く必要を感じないし、書きたくもない、そういう人が幸せなんだと思うよ。文は自意識だよ。
何言ってんの、不本意な人生じゃないほうがいいに決まってるじゃん、と一笑に伏されそうだが、人生の不本意性というのはもう少し奥が深い気もしているのだが。もちろんそんなの「余計な考え」で、考えなくていいことは考えないというほうが幸せというのはわかるが。
一日単位で生きれば幸せ。
さらに言えば幸せならいいかというとそうでもない。
孔丘さんよ、やっぱ儒教だめだと思うんだよ、人を幸せにしねーわ
期待しすぎないことは生存戦略として大事だけど、生存戦略以外の点で鑑みれば、期待はしまくったほうが幸せだ。
あいだに挟まれたら自分の幸せのほうを取ってください
いつの時代に生れ落ちていたら幸せだったか、というのは思いつかない。多分その時代なりの悩みがあるだろう。
「幸せになれました!」と結論しちゃう人は、何かあったら「不幸になった!」と結論しちゃうと思う。
「人をダメにするソファ」とは「人を幸せにするソファ」で、その中身は多幸感の継続希求つまり「ずっとこのままでいたい〜」ってことであり、実は「成長」という概念の対偶に類するものである。
相手を褒めることによって、自分はあなたをこう見ていますよ、こういう良い期待を抱いていますよというメッセージを送ることになり、相手は少なからず言われた期待像に寄り添うように振る舞う。それに抗うのは難しい。言わば支配的な行為たりうるのだが、お互いに幸せなコミットメントなので善である。
どんなことだって、それに関わる人たちを幸せにするのが目的でしょう。
「自分の時間を犠牲にした」んじゃなくて、「自分以外の何かに時間とエネルギーを注力した」ということ。そういう対象を持ち得ることは幸せと呼ばれていいとは思う。
幸せって渦中ではわからないでしょ。事後にそう思うかどうかよね。でも事後っていつなのか、その事後の瞬間も人生の渦中ではないのか、と思うと、自分が生きているうちに感じる幸せってのは定義できなくなっちゃうよね。それこそ死ぬ瞬間だけそれが言えるのかもしれない。正気であればだけど。
嫌なことは無くならないが、それを忘れるのが幸せなのか、赦すのが幸せなのか
幸せになってね。
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sympathy
http://kakiwo.exblog.jp/237905253/
2017-10-21T21:41:00+09:00
2017-10-21T21:41:40+09:00
2017-10-21T21:41:40+09:00
Shinobu_kaki
ライフ イズ
何かを乗り越えてきたように見える人にシンパシーを感じる。
過去に何か強い喪失の体験があり、
一度は打ちひしがれて、無力感を味わいながらも、
そこからまた自ら生命力を発揮して、
しぶとくたくましく歩いているような人。
そういう人は男女問わず素敵だ。
誰かがいった、「不幸自慢は禁止」だと。
確かにその通りだと思う。
誰しも何がしかに傷ついた経験はあるし、
それを自分だけが特別なものであるように言うのは、
ありていに言えば甘えであり、
他人へのリスペクトを欠く行為になりかねない。
それでも、その人が自身の経験を振り返り、
はっきり「傷」と認識しながら、
それを言語化して相対化し、乗り越えるプロセスというのは、
「不幸自慢」などという形容では表せない、
一個の人間の「物語」として心を打つ。
真っ暗で、手を伸ばしても何にも触れない。
足元もおぼつかず、どこまで続くのかもわからない。
しかしいつか終わることだけはわかっている。
その上で、歩いてきた道だけが見えるのだ。
そういうイメージがこの生にはある。
そんな理不尽さに憤慨して、
もっとマシな環境を寄越せと運命を恨んで、
でもそんなものには怒りをぶつけられないから、
自分のルールに反したことをしているように見える他人を恨む。
それはやっぱり、タフさが足りないし、イージーだと思う。
気持ちはわかるが、少なくともありたい姿ではない。
人はどこかでそんな「志」に殉じるものではないかと思う。
ソーシャルではいろんな人の生きる姿が見える。
ほんとうに様々な人がいるが、
さまざまな感情を言語化しながらみんな生きている。
時々、そのこと自体にたまらなく感動してしまうことがあるのだ。
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三日坊主の1日目の記録。
http://kakiwo.exblog.jp/237244668/
2017-07-20T21:17:00+09:00
2017-07-21T00:01:36+09:00
2017-07-20T21:17:47+09:00
Shinobu_kaki
ライフ イズ
久しぶりに体重を量りはじめた。
iPhoneにデフォルトで入っている「ヘルスケア」というアプリに数値を入力する。
折れ線グラフで可視化させることで、自らに継続を促すためである。
プラス、腹筋などの運動は同じくiPhoneのカレンダーにメモする。
昨日はじめたばかりなのでどこまで続くかはわからない。
三日坊主かもしれない。
だけど最近、帰宅後の一連があまりにルーティン化してしまって、
本来ちょっとした快楽的な時間だったはずのひとときから少しずれた感じがあった。
それを打破したかった。
楽しみがルーティン化するもったいなさと、じわじわと体調の悪化する感じをだ。
「ヘルスケア」アプリの記録によると、前回の体重メモは2014年11月。
体重は今と1キロちょっとしか変わっていない。
もちろん今のほうが重い。
ただ、自分について言えば体重は20歳ぐらいの頃から5キロ前後しか変わっていない。
成人してからもっとも体重が軽かったのは、15年ほど前だった。
これは意図的に絞ったものだ。
当時の体重は今よりも数キロ重く、体重だけでなく全体的にたるんだ状態だった。
あるきっかけで、身体を絞ろうと決意した。
その日から炭水化物は半分に削り、毎日何かしら運動をすることを自分に課した。
具体的には夜、仕事が終わってから夜の街を走った。
距離はその日の調子に合わせたが、30分から1時間くらいが主だった。
当時は一人暮らしで、そういった極端な生活の切り替えについても自由だった。
週末になると、すでに入会していた徒歩3分のスポーツジムに通った。
体重は3ヶ月でかなり落ちた。1年以上続けたことになるだろうか、
結局、最大12キロの減量に成功した。
これはちょっとした自信になった。
副作用としては、大したことはないのだが抜け毛が増えた。
といってもハゲたわけではなく、
枕についた抜け毛の目立つ時期があったというだけだった。
減り続ける体重が安定するとともに抜け毛はおさまっていった。
その当時のようなハードな運動は年齢的にも状況的にも難しい。
思えば当時は牧歌的に気楽な立場を享受していた。
突然体重を減らそうとか、運動をしようというのは
非常にわかりやすい思いに根ざしている。
今の自分の停滞感を払拭したいのである。
当時もそうだった。今もそうだろう。
ところで昨日の運動後の、風呂上がりのビールは非常にうまかった。
バランスのいい生活、バランスのいい人生。
こんなアンバランスな人間はそれくらい標榜したほうがいいのだ。
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人名を含んだタイトルなのに主人公が明らかに別の登場人物、という物語
http://kakiwo.exblog.jp/237096536/
2017-06-15T00:16:00+09:00
2017-07-20T23:50:27+09:00
2017-06-14T23:57:09+09:00
Shinobu_kaki
エウレーカ!
そもそもの発端は、上記ツイートにもある「鬼龍院花子の生涯」である。
地上波でも何度も放映してるなじみの深い映画なのだが、
あらためてちゃんと通して観たのはごく最近になってからだった。
この映画、ポスターでも予告でもヒロインはどう見ても夏目雅子なのだが、
夏目雅子が鬼龍院花子ではないのである。
(ちなみに鬼龍院花子役の高杉かほりはwikipediaに項目すらない)
この構造はあらためて面白いな、と思ったのだった。
また、小説や映画やマンガだけでなくゲームも含めて知りたいという意味で、
ツイートには「ゼルダの伝説」を例として挙げた。
いくつかでも反応がもらえたら…というノリだったのだが、
1300を超えるRTという予想外の反応をいただき、
これはなかなか良いデータベースになるのではないかと思い、
簡単ではあるがまとめてみた。
なお、おわかりかと思うが、タイトルの後の( )内は、
物語の中の実質的な主人公と思われる人名である。
映画・ドラマ(実写)
まずは「本命」の映画である。
個人的には「アマデウス」や「桐島」あたりがまず思い浮かんだ。
鬼龍院花子の生涯(林田松恵)
宇宙猿人ゴリ(スペクトルマン)
となりのトトロ(サツキ、メイ)
プライベート・ライアン(ジョン・H・ミラー)
リリィ・シュシュのすべて(蓮見雄一)
グッバイ、レーニン!(アレックス)
マドンナのスーザンを探して(ロバータ・グラス)
あの頃ペニー・レインと(ウィリアム・ミラー)
アマデウス(サリエリ)
桐島、部活やめるってよ(前田 涼也)
ヒトラーの贋札(サロモン・ソロヴィッチ)
顔のないヒトラーたち(ヨハン・ラドマンほか)
キサラギ(家元)
レイチェルの結婚(キム)
ボギー、俺も男だ!(アラン、というかウディ・アレン)
アニー・ホール(アルビー、というかウディ・アレン)
フィリップ! 君を愛してる(スティーヴン・ラッセル)
リップヴァンウィンクルの花嫁(皆川 七海ほか)
メルキアデス・エストラーダの三度の埋葬(ピート・パーキンス)
デブラ・ウィンガーを探して(ドキュメンタリー。ロザンナ・アークエットほか)
ベッカムに恋して(ジェス・バームラ)
ヴァージニア・ウルフなんか怖くない(マーサ)
キージェ中尉(不明)
アイアンキング(静 弦太郎)
ルビー・スパークス(カルヴィン・ウェア=フィールズ )
アンジェリカの微笑み(イザク)
ポビーとディンガン(ケリーアン・ウィリアムソン)
シービスケット(レッド・ポラード)
ロッキー・ホラー・ショー(フランクン・フルター博士)
僕のボーガス(ハリエット・フランクリン)
信さん 炭鉱街のセレナーデ(辻内美智代)
ジョゼと虎と魚たち(恒夫)
(500)日のサマー(トム・ハンセン)
ジェーン・オースティンの読書会(ジョスリンほか)
ジョニーは戦場へ行った(ジョー)
エミリー(エリン・ブルナー)
ディアトロフ・インシデント(ホリー)
ぜんぶ、フィデルのせい(アンナ)
漫画・アニメ
マンガで浮かんだのは手塚治虫の「どろろ」。
あとは「AKIRA」「ドラえもん」あたりは象徴的な作品と言える。
AKIRA(金田正太郎)
ドラえもん(のび太)
涼宮ハルヒの憂鬱(キョン)
天才バカボン(バカボンのパパ)
憂国のラスプーチン(憂木衛)
さよならみどりちゃん(ゆうこ)
トイレット博士(スナミ先生ほか)
どろろ(百鬼丸)
エロイカより愛をこめて(クラウス?)
ソウル・イーター(マカ=アルバーン)
ブラックジャックによろしく(斉藤 英二郎)
まりあほりっく(宮前 かなこ)
1000年女王(雨森 始)
もののけ姫(アシタカ)
Dr.スランプ(アラレ)
チンプイ(エリ)
ファインディング・ニモ(マーリン)
となりの関くん(横井 るみ)
トーマの心臓(ユリスモール・バイハン)
みゆき(若松 真人)
奈緒子(壱岐雄介)
GS美神極楽大作戦!!(美神 令子)
さんかれあ(降谷 千紘)
オリビアちゃんの大冒険(バジル)
おれ、夕子(佐藤 弘和)
七つの海のティコ(ナナミ)
ふしぎの海のナディア(ジャン)
いけない!ルナ先生(わたる)
霊能力者 小田霧響子の嘘(谷口)
おおかみこどもの雨と雪(花)
のんちゃんのり弁(原 小巻)
夜ノヤッターマン(レパード)
ヘルシング(アーカード)
モジャ公(天野 空夫)
バケルくん(須方カワル)
アリスと蔵六(樫村 紗名)
ぬらりひょんの孫(奴良リクオ)
夜さん(晨)
奥田民生になりたいボーイと出会う男すべて狂わせるガール(コーロキ・ユウジ)
ストップ!ひばりくん(坂本 耕作)
からかい上手の高木さん(西片くん)
思い出のマーニー(アンナ)
サカサマのパテマ(エイジ)
ハルオ(ナツキ)
デボラがライバル(関本朝代)
のぞみウィッチィズ(司葉遼太郎)
くじらのホセフィーナ(サンティー)
ヒノコ(マユラ)
大好きが虫はタダシ君の(志織)
波打ち際のむろみさん(向島 拓朗)
忍者戦士飛影(ジョウ・マヤ)
ゲーム
正直、ゲームはあまり数を期待してなかったのだが、けっこうあるんだね。
ゼルダの伝説(リンク)
悪魔城ドラキュラ(シモン・ベルモント)
ドルアーガの塔(ギル)
アイギーナの予言(ジェイソン)
大魔司教ガリウス(ポポロン/アフロディテ)
頭脳戦艦ガル(ジスタス-21)
パルテナの鏡(ピット)
癸生川凌介事件譚(生王 正生)
ドンキーコング(マリオ)
メトロイド(サムス・アラン)
ワリオの森(キノピオ)
メタルギアシリーズ(ソリッド・スネーク)
The Vanishing of Ethan Carter(Paul Prospero)
ソロモンの鍵(ダーナ)
プーヤン(プーヤンの母親)
リンダキューブ(ケン)
グラディウスⅡGOFERの野望(ビックバイパー)
魔王ゴルベリアス(ケレシス)
遺作(小暮 健太)
サラダの国のトマト姫(キュウリ戦士)
小説・ライトノベル
そして実は一番数が多かったのがこのジャンル。
何しろ今回の要件を満たすタイトルは、ラノベにとても多かったのだ。
自分にはなじみのないジャンルだったので、ひたすら勉強させていただく感じ。
グレート・ギャツビー(ニック・キャラウェイ)
刑務所のリタ・ヘイワース(レッド)
小僧の神様(仙吉)
田村はまだか(花輪 春彦ほか)
さよならドビュッシー(香月遥)
鷲見ヶ原うぐいすの論証(麻生丹 譲)
月見月理解の探偵殺人(都築初)
藍坂素敵な症候群(那霧浩介)
SHI-NO -シノ- (僕)
七花、時跳び!(柊和泉)
和宮様御留(フキ)
エロマンガ先生(和泉 正宗)
ダ・ヴィンチ・コード(ロバート・ラングドン)
アルジャーノンに花束を(チャーリイ・ゴードン)
ミザリー(ポール・シェルダン)
パーマー・エルドリッチと3つの聖痕(ハミルトン)
クドリャフカの順番(折木奉太郎)
なぜ、エヴァンズに頼まなかったのか?(ボビイ・ジョーンズ)
怪人二十面相シリーズ(明智小五郎)
ボリバル侯爵(ローン少尉)
レベッカ(わたし)
エディプスの恋人(火田七瀬)
ピックマンのモデル(わたし)
マギンティ夫人は死んだ(エルキュール・ポアロ)
麦ふみクーツェ(ねこ)
走れ!タカハシ(多数)
戦闘妖精・雪風(深井零)
老ヴォールの惑星(フライマ)
櫻子さんの足下には死体が埋まっている(舘脇正太郎)
真珠郎(椎名耕助)
萩原朔太郎の亡霊(須貝国男/岡部和雄)
山椒太夫(安寿と厨子王)
ジェニーの肖像(イーベン・アダムス)
ダンタリアンの書架(ヒューイほか)
姫宮さんの中の人(星野純人)
今日のユイコさん(多田野 トモヤ)
鳩子さんとラブコメ(平和島隼人)
星野、目をつぶって。(小早川)
天久鷹央の推理カルテ(小鳥遊 優)
絶対城先輩の妖怪学講座(絶対城 阿頼耶)
天球駆けるスプートニク(イバ・タクロウ)
マツリカ・マジョルカ(柴山祐希)
壁にメリードットcom(ヨウヘイ)
失恋探偵ももせ(野々村九十九)
成恵の世界(飯塚 和人)
春琴抄(私)
マリアの指(鈴木恭介)
李陵(司馬遷)
百舌鳥魔先生のアトリエ
悲しみのイレーヌ(カミーユ・ヴェルーヴェン)
プリンセス・トヨトミ(松平 元)
マリア様がみてる(福沢祐巳)
お釈迦様もみてる(福沢祐巳)
フーコーの振り子(カゾボン)
夜の国のクーパー(公務員)
一八八八切り裂きジャック(鷹原惟光)
ブランコ乗りのサン=テグジュペリ(愛涙)
比類なきジーヴス(バーティー・ウースターほか)
紫のアリス(紗季)
カルネアデスの舟板(玖村武二)
落語
落語は正直あまり詳しくないが、調べてみるとなるほどである。
らくだ(半次)
不動坊(利吉)
加賀の千代(甚兵衛)
真田小僧(親子)
文七元結(長兵衛)
道灌(八五郎)
その他
ここは戯曲とか、ジャンル分けがちと微妙なやつ。
「ゴドーを待ちながら」なんてのは作品構造そのものが中心の不在という感じで、
これは「桐島、部活やめるってよ」などの下敷きになっている。
アガメムノン(クリュタイムネーストラーほか)
ゴドーを待ちながら(ウラディミール/エストラゴン)
葵上(六条御息所)
ジュリアス・シーザー(ブルータス)
オズの魔法使い(ドロシー)
風の又三郎(高田三郎)
かさねちゃんに聞いてみな(ユッキー)
というわけで以上。
いくつは取りこぼしもあるかもしれないのと、
あと検索してみて、少し微妙かなと思うものは独断で外させてもらいました。
いやー、しかしみんな詳しいわ!すごい。
本当にありがとう!
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「怒り」について。
http://kakiwo.exblog.jp/23649839/
2017-02-14T19:58:00+09:00
2017-07-21T00:02:09+09:00
2017-02-14T19:58:40+09:00
Shinobu_kaki
ライフ イズ
人はどんな時に怒るのか。
「怒り」について、自分が以前ツイートしたものの中から抜粋。
メモです。長いですよ。
怒りは何より自分を滅ぼす。内側から自身を焼き、外に出しては他人から憎しみを得る。
怒りがあるのに出すなっていうんじゃなく、戦って根絶するなり、
徹底的に意識を別に向けるなり、怒りを自分から手放すことだろう。
人が何かに頭に来る時に、それまでの半生で消化できなかった
別の怒りが誘発されないという人はあまりいない気がする。
本当にそういう人がいたら、そもそもあまり怒らない人になるだろう。
この世のすべてを蔑んでいたら、怒りを覚える道理がない。
過干渉の親に育てられた子供は基本的に怯えながら暮らしていて、
だから人間が嫌いになるし、怯えているからものすごい怒りとパニックが出る。
すべての怒りは八つ当たりの性質を帯びる、というと聞こえが悪いが、
言い換えると、怒りは原因から離れて自分から取り出され、
まさに火のようにそれ自体として存在しうる。
怒りの中身は、期待外れ。
怒る正当性を得た、と思っている人の怒りは長く続く。
「人の怒りはフラストレーションの仮託」というのが大きいと思っている。
自分自身もそうだし。何かについて怒っている人は、
何かについて怒ってるわけじゃないというのがある。
一度何かにものすごい怒りを覚えると、
その後、脳の機能が少し破壊されたように凡ミスが増えたりする。
そういう場合、本当に少し壊れているんじゃないかと思う。
怒り続けるも怒りを収めるも、そのボールは自分が持ってるって自覚すること。
自分の選択として怒っている、と。
これを誰かのせいで自分は怒らざるを得ないのだと思っていると、
自分で怒りを鎮めることができない。
ボールがどっかの誰かにあるということだから。
「研究によってわかったのは、
憎しみが生じるのは生物が古代からもっている生存の本能に、
激しい嫌悪と怒り、スレテオタイプ化、
そして『われら対、彼ら』という区別が結びついたときだということだ」
ラッシュ・W・ドージアJr.『人はなぜ「憎む」のか』
正当性のある怒りでも、他人からは「怒っている人」に見えることは変わらない。
本人が一番損をする。
そのことが、自分を怒らせた原因になった人間への怒りを増幅させたりね。
感情、とくに怒りの感情は所有権が曖昧で、
まったく別のことで怒っていたり自分に腹を立てたりしていても、
近くにいる人は自分に向けて怒っているように感じられる。
整理できない怒りを抱え込んでいると、他人から見て怖い人になるため、
距離を置かれたりする場合もある。
怒りを押し殺して何かをすると、最終的に人に嫌われる。
そもそも怒りというのは、一旦沸いたらどこに向けるかというのをコントロールするのが結構難しい性質のもの。
寂しさと怒りは実は同質。
条件設定が先にあるんじゃないんだと思う。怒りが先にあるんだと思う。
その自分の怒りとの整合性を取るために、
自分が怒るにふさわしい条件づけを自分自身で行うんだと思う。
一度でも火のような怒りを向けられたなら、理由や経緯はなんであれ、
その相手を二度と許せなくなるというのはあるだろう。
人の怒りというのは基本的に、
理路整然と対象があって原因があって怒りがあるのではなく、
日々の漠としたエネルギーを集結して溜めておき、
何かキッカケがあったときにダムの放水のように射出されるものだと。
ちょっと考えられない、みたいな人をTLで見かけたとして、
通常の感覚では理解できないその差を埋めるみたいに怒りのような感情が起こり
「許せない」となるのかもしれないけど、そもそも理解しようとしなくていい。
怒りはエゴだ。好きで怒っている。あるいは、自選的に怒っている。
つまり怒らないという選択も可能な状況のなかで、あえて選んで怒っている。
それを忘れてはいけない。そして、怒ったことで自分の一日は台無しになる。
腹を立てるくらいなら離れればいいと思うのに、そうもいかないのは、
怒りより寂しさのほうが耐えられないからだろうか。
長く執着して怒りを募らせるぐらいなら、
相手を自分の頭の中から、適当な罪状を与えて追放しよう。
何かにわざわざ自分から怒りにいく人は、その人の中で
「怒りというかたちの感情の解放」を必要としてるんだと思うけどね。
そして本当は、それは怒りのかたちじゃなくていいんだけど、
怒りっていうのは相手の非を責めてる分、
相対的に自分の側に正当性が得られるから、便利だし、ちょうどいいし、
速いし、傷つかないわけで、よく使われる。
何かにわざわざ自分から怒りにいく人は、その人の中で
「怒りというかたちの感情の解放」を必要としてるんだと思う。
怒る時に比較的饒舌になるタイプがいるが、
これは「怒っても頭は冷静」なのではなく、言葉が整理されて饒舌になるほど
自分の中で怒りの感情を溜め込んでいたから、である。
怒りは執着。
あなたの怒りはどこから?
「私は寂しさからー!」「私は虚しさから!」「私は疲れから…」
「何をしたかよりも、どんな人間であるかを批判されたほうが、
人は恥辱と無力感を強く感じる。
そしてそんな惨めな屈辱感から逃げる方法などないから、
批判されたほうが怒りの反撃に出るほかなくなる」
怒りに限らず、感情というものは理性だけではなかなか御しがたいものだ。
やっぱりこう、怒りを表出している人はその攻撃性ゆえに忌避される。
いかに「この怒りはあなたにではない、こういう人にです」と明記したとて、
その異様な熱量に触れれば、ある程度自分ごととして快不快を感じずにはいられない。
つまり、感情そのものが問題なのであって、矛先の問題ではないのだ。
怒りについては、基本的には言葉は悪いが「ごまかす」ということしかない気がする。
別のことに自分の気持ちを持って行って、
結果的に薄めることでどうってことない話にしてしまえればベスト。
そうではなくて、
怒りの根本原因に真正面から立ち向かって解決しようというソリューションは、
怒りの対象への心的接触時間を増やすだけであまりいい結果にはならない気がする。
冷静的な怒りはない。怒りが冷静である必要もない。
「優しい人が怒ると怖い」というのは、
まずあまり怒らない人が怒ったこと自体のギャップに驚くこと、
普段溜め込んだ怒りを一気に出す分だけ怒り度合いが激しいこと、
怒りに慎重な人なだけに怒りの正当性が強固であること、
怒り慣れてない人の怒りはブレーキの利かない恐れがあること、あたりかな。
怒ってる人が本当は恐るるに足らないのは、
怒ってる人は「弱き者」だからだ。怒りというのは被害届だ。
損得勘定で考える人は、好きなものがないということになり、
好きなものがないという理由で癒されない。怒りの感情がある。
「女の怒りは積み立て預金」といった言い方に対する
男のしくみの話ってあまり出て来ない。あるんだろうけど。
怒りを覚えるのは相手に期待し過ぎなのだ。
対人関係にプレッシャーを感じすぎるとやがて怒りにかわってしまう。
相手に誠実であろうとする、承認を得ようとするから苦しいんで、
評価されようと思わなければ相手に対するプレッシャーも薄くなる。
だってそんな人、本当はどうでもいいでしょ?
怒りの処方って難しくて、抑えてもダメだし、
感情に任せて形にしても不本意な状態で残るしね。
怒りというのは期待と執着だけど、軽蔑はそうじゃない。
目の前に現実的なストレスがあると、思考がそれに引っ張られる。
不満や怒りについての感情的担保を、その時の言葉にしてしまう。
怒りへの執着は酔いのようなものだ。醒めると視野が広がる。
依存してたら相手に怒りが沸くのは当たり前だ。
「してもらって当然」という意識ほどに、相手が何かをしてくれるわけがない。
「怒りは自分に盛る毒」か。という言い方もあるだろうし、
そもそも自分がそれに怒りという反応を示すのはなぜか、という部分よね。
正直な感情はむしろ健康だ。
精神が守りに入ると怒る機会が増える感じある。怒りというのはリアクション。
怒ってる人は同時に悲しいのである。その怒りは正当だ。
やはり感情の中では怒りがいちばん瞬発力があるので、いちばん鋭く自分から出てゆく。
義憤するとき、人はだいたい類似のケースを思い出し怒りしている。
怒りってその時の対象に対する感情100%ってあり得ない。
絶対に精神コンディションによって怒りが増幅される、
平たく言うと八つ当たりが混ざる。誰でもそうだと思う。
逆に、精神が安定していれば多少の怒りは揮発されていく。
やたら怒りやすい人は普段からの怒りの蓄積がある。
自分の心を覗くと、やっぱり怒りってのは自尊心の問題。
何はともあれ怒りやいらつきを表明しないほうが得策なのは、
その人のその怒りが別の誰に向けられているという事実を頭ではわかっていても、
人は、目の前にある怒りを自分に向けられたものであるという気になってしまうから。
人の行動律を決めるのは大枠では「怒り」で、怒りのもとになるのは「怖れ」だろう。
人が何かをするのは怖さが源泉にある。
とりあえず言えるのは、怒りは甘え。
怒りの感情はクラウドみたいに、触れた人誰彼に共有される。
その際、怒りはそれぞれの人の身近な不快事案に当てはめられる。
「怒りの感情を乗せて主張すると、通る主張も通らなくなる」のは、
怒ってしまうことで「この人は問題を解決したいのじゃなくて、
感情的に許せないというだけなんだ」と相手に思われてしまうからかな。
自分を押し殺したぶんだけ、無意識に他人を憎むことになる。
その怒りは誰にも理解されない。
怒りを生み出すのは簡単で、期待して裏切られるとよい。
怒りの感情をぶつけるのははっきり甘えだが、
感情的に自律していつも淡々とするのは冷たく感じる人もいよう。
それはどうやって生きてきたかという話でもあるよなあ。
コンディションとしての怒りが先か、怒りを誘発する状況が先か、このへんは微妙。
表層としての感情があって、心が勝手に自分の中の感情の原因を探してきてしまう。
それほどのことではなかったはずのものが、例えば非常な怒りの原因にすげ替えられ、
怒りの相手への感情が水増しされる。
怒りは「無視しないでくれ!」という気持ちに近い。
何か不快なことがあった時の自分の心を見ると、
怒りや不快の表明ってのは自尊心の防衛なんだというのがはっきりとわかる。
怒りって飢えみたいな感じ。求める心。
他人に誠実さを求めて得られないと怒りの感情が生まれてしまう。
的確な怒りは正当性を帯びるので、過激になる。
相手の働きかけによって自分の何かが変わってしまう、
その脅威を感じた時に相手に対して怒りの感情が沸く。
でも、それによって自分は別に変わらないよという確信があれば怒りは覚えない。
怒りというのは拒否反応なんだ。恐れだよな。
人が怒りを爆発させる時は、それが着火原因になったことは間違いないにせよ、
着火するギリギリになるまでイライラを別件によって溜め込んでいたということ。
なので人は怒っている他人に比較的冷たい。
怒りと悲しみは非常に似た感情だよな。どちらも自意識に近いところにある。
怒りが整理されると悲しみに変わる。
怒りも喜びも、感情ってのはとにかく伝染しやすい。
それは人間同士が完全に別れた個体というよりは、
同一空間にいることである程度混ざり合う存在ということの証左であって、
それがために生理的に合わない人には拒絶反応を示したりするんだろう、とか思う。
基本的に自分の怒りは抑えようとしているタイプなので、
それでも表に怒りが出てくる時は、自分の中の防御壁をいくつも越えて表出した、
理屈として強固な怒りであることが多く、わりと激しい。
人を動かすものは怒りなのだなあ。
受けた攻撃を人は忘れることは出来なくて、許すか許さないかの話になる。
許すにしても、そこで相応の感情的負荷がかかる。
その負荷の分は別のどこかにぶつけることになる。
そうやって巡っていく。怒りは受け止めてはいけない。
怒りは、発した時点で自分自身もやけどをしている。
人が人に対して怒る時というのは、突き詰めると
「この人は自分のことを尊重していない、軽く見ている」と感じられる時だと思う。
だから逆説的に、怒りやすい人は軽く見られがちになる。
対人関係で起こる摩擦、怒りってのは、誰かが何らかの形で引き受けることになる。
建前では問題ないと言ってても、感情レベルでお互い納得していないと
そのモヤモヤは澱となってお互いに溜まる。
力関係が違い過ぎると弱い立場の人間が溜めることになる。
口でだけ綺麗事を言っても駄目。
対人関係、特に仕事における感情として、
「怒り」と「嫉妬」は何かを完全に支配している気がする。怒りと、嫉妬。
怒りはたいてい、その本来の姿から歪んだ形で表出する。
人が怒るのは自分のルールを乱された時。
そこにおいて善意か悪意かというのは確かに違うけれど、
きっと違う種類の怒りがあるだけなんじゃないか。
自分が譲歩することで関係の平和が保たれてると思っているタイプは、
過剰な領域侵犯に非常な怒りを示す。
すでに相当な譲歩を普段から行っていると感じているからだ。
これが「穏やかな人だと思ったら怒ると怖かった」のメカニズムだと思う。
人に怒りをぶつける人は自分の何かが思い通りにいかないと感じている人だし、
人をdisっている人は欲求不満の行き場を探している。
誰かを憎むことについても、その相手は単なる状況の奴隷かもしれない。
その人は憎むに足らない小物かもしれない。
怒りを憐憫に変換させることは、割と効果的かもわからない。
怒りの解放の形が、怒りでないものにできるとすごくいい。
怒りという感情は面白い。なぜ面白いのか考えてたんだけど、
いま思ったのは、怒りが「最も人にコミットする感情」だからではないか。
悲しみという感情の正体は、抑圧された怒り。
世の怒りの何割かは「ラクしてんじゃねえよ」ってことだと思う。
怒りの感情でもっとも厄介なのは、その正当化である。
「怒りというのは、あなたのルールを誰かが乱したときに発生する」
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夏の映画メモ。
http://kakiwo.exblog.jp/23247297/
2016-09-28T00:31:00+09:00
2017-01-24T17:15:31+09:00
2016-09-28T00:30:38+09:00
Shinobu_kaki
人生は映画とともに
みんな元気?
ごぶさたです。
最近、週末は家で映画を観ている。
いい時間である。
英語では夏の読書を「summer reading」などと言うようだが、
それの映画版という感じだ。
もちろん本もそれなりに日々読んでいるのだが、
なにしろメモを取ってないので何を読んだかわからない。
まあそんな中で、観た映画くらいはちょいとメモっておこうということで、
久しぶりにブログにこうして書いているわけ。
まあメモなので、簡単に。
『桐島、部活やめるってよ』
神木くんが秀逸。あとエンディング曲を歌う高橋優がいい。
その年の映画賞を総なめにした一本だけど、確かにという感じ。
非常に「わかってる」感じのつくり。
『アラビアのロレンス完全版』
これはDVDを持っていて、それで観た。
何度目かの鑑賞になる。もともと長いのに加えて、
持ってるのがデラックスコレクターズエディションときた。
227分。長い。
長いけど、ダテに名作の看板しょってない。ちゃんと面白いのだ。
個人的にはオマー・シャリフがとてもチャーミングと思う。
『ブルーバレンタイン』
https://youtu.be/2epESvYLZh8
この動画でもさんざん語られている一本。
信じられないくらい悲しい映画(という言い方もできる)。
でも、どうなんでしょうね。
結婚って生活でもあるから…みたいな、
要するにそういうことを人と語りたくなるような作品。
あと、ミシェル・ウィリアムスってこういう役多くないですか。
『息もできない』
家庭内暴力のトラウマがかすかでもある人は観ちゃダメ!な映画。
作品としてはマスターピース。
さまざまな感想が渦巻くけれども、
主人公の兄貴分マンシクが最後はうまいことカタギになって焼肉屋やったりして、
でも女子高生のお母さんの屋台襲ったのあんたもだよね?みたいな、
なんかこう、笑顔と人当たりって大事だなって思いました。
『英国王のスピーチ』
風格あふれる作品。ジェフリー・ラッシュの顔が好き。
『エイプリルの七面鳥』
トム・クルーズの奥さんだったケイティ・ホームズが主演です。
それにしてもトムは人生のかなりの部分をサイエントロジーに…。
『ライフ・オブ・パイ』
撮る映画の脈絡がよくわからない鬼才、アン・リーの映画。
虎と漂流するインド人青年の話だが、
非常に奥の深い寓意とメタファーに満ちた物語。
この映画はすごいよ。
ひたすら美しくもありながら、ぞっとする部分もあり。
忘れられなくなる一本。
『グラン・トリノ』
イーストウッドの映画の中でも評価のとりわけ高い作品。
デトロイトという象徴的な街に、イーストウッドは
ポーランド系の自動車組立工の偏屈じいさんという象徴的な役柄で出演。
観た人にけっこうな傷を残す感じの映画だと思う。
映画に託されたテーマから考えても名作。
『マイレージ、マイライフ』
主演はジョージ・クルーニー。演出のテンポが非常に良くて、
決して軽くないテーマを軽やかなリズムで観られる。
ラストについてはいくつかの解釈があり、それはこのまとめに詳しい。
(私家版)『マイレージ、マイライフ』の一解釈をめぐる映画評論家町山智浩(@TomoMachi)と@my_yoursの議論
『ハート・ロッカー』
キャスリン・ビグロー監督はこれで、史上初の女性によるアカデミー監督賞受賞者に。
イラク戦争での爆弾処理班の懊悩がテーマだが、ブッシュ政権のイラク戦争に対する
巧妙なアンチテーゼになっているあたりが授賞のポイントかな。
『レボリューショナリー・ロード』
ディカプリオとウィンスレット演じる夫婦の、結婚生活の破綻を描いた映画。
この二人と言えばもちろん『タイタニック』のカップルなわけで、
その時点で強烈なアイロニーを感じないではない。
トラウマチックな話なのだが、静謐な感じが漂うのは
監督サム・メンデスの教養という感じがする。
『そして父になる』
久しぶりの是枝映画がこれだった。
リリー・フランキーが映画にひっぱりだこなのがわかった気がした。
福山雅治が主演ながらバランス崩してたきらいもあった。でも最後は泣いたなあ。
どうも自分が父になってからは、父子ものって涙腺を刺激しすぎる。
いろいろとひどい話なんだけど、ありえなくはなさそうな設定なのがさすが。
愛の対極は「かたち」であって、
福山演じるパパはことごとく「かたち」を取ってしまうんだよな。
『アンダーグラウンド』
20代の初めだったかなあ、これ観たい!と思って
それっきりになってしまっていた一本。
めでたくこのたび、最後まで観ることができました(挫折経験が一度ある)。
結論から言うと非常に好きなタイプの映画で、
しかもいざ観てみたら、ここに挙げているすべての映画の中でもベストだった。
『ミスティック・リバー』
キャストの豪華さに魅かれて観た。
ショーン・ペン、ケビン・ベーコン、ティム・ロビンス、監督がイーストウッドですよ。
観るでしょう。
これもひどい話で(イーストウッドはいつもひどい話ばかりな気がする)、
人が生きていて悲劇に巻き込まれるのはしょうがないんだ、
みたいに言われてる気になる。
あと、ショーン・ペンの出てる映画っていくつか観てるけど、
駄作ってない気がするんですが気のせいですか。
という感じで。
さて、次は何を観ようかなあ。]]>
20160516
http://kakiwo.exblog.jp/22814193/
2016-05-16T08:32:00+09:00
2016-05-16T08:34:21+09:00
2016-05-16T08:29:29+09:00
Shinobu_kaki
ライフ イズ
それができたら自分の心の中で祝い、慰労する。
ビールでもなんでもいい。
あまり長期スパンで考えない。
考えてもわからないことは考えてもしょうがない、
それはどうでもいいことだ。
他人という不確定要素についても同様で、
他人のことは考えてもわからない。
他人を前提に組み込んだ想定はなるべくしない。
できることをやり、やってみたいことをやる。
できないことははっきりと表明する。
人ははっきり断られることは嫌いではない。
断らずに困ったり不快感を表明するほうがよほど悪い。
目の前の相手に困られると、自分が相手を困らせた悪人ということになり、
人はそういう自分を許容できないために、困っている相手を否定する。
だから屈託なくはっきりと意思を表明したほうがいい。
シンプルに生きる。
シンプルに生きる、というのは態度を決めるということだ。
態度を決めるというのは、
何かを捨てたり嫌われたりすることも辞さない、
こっから先はぜんぶ持っていってもいいよ、
でもひとつだけこれは守るからね、という覚悟を持つってこと。
違う言い方で言えば、
どこかで誰かに笑われていたとしても構わないということ。
そこは大事なものではないから捨ててしまう。
抱える必要がないものだ。
誰にとっても、どうせいつかに人生の終わりはくる。
それがいつかはわからない。
起きてしまった過去は消せないし、
なかったことにはできないけれど、丸ごと押し流してしまう。
誰しもそうやって生きるしかない。
短く、軽く、一日ずつ。
なるべく拘泥や執着から離れていくこと。
目が覚めて、
あれっ、自分はこの先どうやって生きていけばいいんだっけ?
と思う朝に。
]]>
ナイーブさについて。
http://kakiwo.exblog.jp/21770537/
2016-04-30T23:06:01+09:00
2016-04-30T23:05:47+09:00
2015-10-24T22:35:08+09:00
Shinobu_kaki
ライフ イズ
ときどきナイーブさ=敏感さ、みたいに思われがちだが、
それはセンシティブという別の表現があるのであって、
ナイーブというのは少なくとも自分の中では、
未成熟で脆弱で折れやすい、ただの精神的ひ弱さでしかない。
そう前置きしたうえで、自分はナイーブかナイーブでないかというと、
明らかにナイーブなほうに入るのだろうと思う。
また、シャイかシャイでないかという区分に置いてもやはり、
シャイなグループに入ってしまうのは否めない。
年をそれなりに取っていけばこういうものは徐々に改善されて、
年相応のタフな大人というものに自分ですらも変貌を遂げるのだろう、
それが言い過ぎならば収まるべき姿に収まるのだろうと考えていたものの、
どうやら43歳という年齢になってもフラジリティを持ったままである。
ナイーブさを自覚する具体的な例として、
他人に相対したときの精神コンディションの不安定さがある。
屈託があるのである。
自分が思っていたり相手に伝えたかったりすることが普段あったとして、
その場面においてあるべき形で表出できずに、
あとで忸怩たる思いを抱く…ということもそれなりに多く、
またそういった自分の中のバイオリズム的なアップダウンに抗うことができない。
人が人を「タフ」だと言うときの中身というのは、対他人ではなく、
この自分の内部の屈託に対するタフさのことではないかと思う。
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