カテゴリ:ライフ イズ( 578 )

ふと「効率化」という言葉とその内容について考えていました。

いろんなことが「効率化」の目的のもとに行われていると思ったのです。


我々にとって身近なのは、例えば時間の効率化。


例えば、いつもの通勤電車に乗っていて、その電車がトラブルで少し遅れたとします。

閉じ込められるといったレベルじゃないですよ。ほんの少し。

でも、そのせいで出社時間にはもしかしたら少し遅刻するかもしれない。

その意識があったことで、乗り換えた次の電車のドアが閉まりそうな時に、

危ないとわかっていながらついつい駆け込んでしまうとします。

そこには「効率化」の意識があるのではないかと思うのです。


確かに、電車が遅れたのは鉄道会社側の都合なのだから、

会社にはきちんと理由を説明すれば、遅刻という扱いにはならないかもしれない。

でも、そのために必要な手続きというのは結構面倒くさい。

その面倒くささを回避するために、何もなかったかのようにするために、

ちょっとした「反則」としての電車への駆け込み乗車をする。

それは言ってみれば「効率化」と呼ぶべき心の動きではないかと思うわけですね。


駆け込み乗車くらいならまだいいんですが、これが例えば、

車を運転しているドライバーがスピードを出しすぎたり、信号無視をしたり、

あるいはそういう道交法違反というレベルでなくとも、

交差点で左折を急いでしまうとかは全然ありえないことじゃない。

それで、横断歩道を渡る人を轢いてしまったりとか

その理由は「急いでいたから」あるいは「時間の遅れを取り戻そうと焦って」

みたいなことだと思うんです。

それはすなわち時間的な効率化を図ろうとして起こった事故ということになる。

効率化なんて生きるの死ぬのじゃないんです。そういう問題じゃない。

でも交通事故はまさに生死に関わる問題です。目的と結果のバランスが悪すぎます。

それでもそこに、車とスピードという、凶器になり得る要素が重なることで、

まったく本意ではない恐ろしい結果に繋がることがあるわけですよね。


効率化は突き詰めるとキリがありません。

しかもその思いに囚われすぎてしまうと、ものすごく余裕がなくなって、

そんなにピリピリする必要がない場面でもピリピリしてしまう。

僕は人の感情を水みたいな液体のように考えていて、

いったん熱くなり始めてしまうと人によっては感情はあっという間に沸騰する、

そんなイメージを持っています。

感情が水だとすると、外側にあるものの熱さ冷たさにすごく影響されるので、

自分が常にコントロールして適温を保つのは難しい。

急がなければ!という状況に対して、そのボルテージのままに感情は熱くなり、

文字通り冷静さは失われます。そうして繊細な判断力は吹っ飛んでしまう。

それはさまざまなものを損なうことでしょう。

ちょうど、沸騰させてしまったスープから風味や味わいが失われるように。



by shinobu_kaki | 2018-05-18 16:56 | ライフ イズ | Trackback | Comments(0)

15年の区切り。

15年お勤めした会社を、今日で離れます。

退社日はもう少しあとだけど、
有休消化を含めると、今日が最終出社日。

誰に話しても「15年は長い!」と驚かれるね。
確かに、ひとつの会社にもっと長く勤めてる人はざらにいるけれど、
それでも15年といえばちょっとした歳月。
単純にその時間の長さにしみじみ感慨を覚える。
15年前はまだこのブログだってなかったしね。

挨拶にまわって、引き継ぎをして、
データを片付けて、机まわりを綺麗にして。
家に送る荷物も手配して。

なんだかどっと疲れてしまった。


少しだけ休んで、次に行こう。




by shinobu_kaki | 2018-03-23 16:06 | ライフ イズ | Trackback | Comments(4)

魂の救済。

先日、誰かが「魂の救済の物語」について書いていた。
これはある種、究極的なテーマであると思う。

まず、人は自選的に生まれてくるのではない。
そんな「負わされた生」を自分のものとして受け入れる、
その一連のプロセスが生きるということだと言える。

さらに生まれた国や時代、家庭環境などによっても
大きく変わってくるのが人の生であり、
それは本人のせいではありえない。
しかし日々に不遇、不運、不本意、不平等、不協和は起こり、
我々の魂はその都度、痛み削られる。

例えば早く死んでしまった人は不幸なのか。
早逝は気の毒だし不遇であろう。
しかしそれだけで不幸だったと決めつけるわけにはいかない。
長く生きていたって不幸な人はたくさんいるし、
むしろ生きる長さに比例して、嫌なことの数は単純に増える。

例えば暴力に晒されたり、虐げられた人は不幸なのか。
こういう人生は確かにつらい。
平穏な人生とどちらを選ぶ?と言われたら、
前者を選ぶ人はいないだろう。僕だって選ばない。
しかしそれだけで不幸と決めつけるわけにはいかない。
いや、人生という意味では確かに不幸だ。
だがそれで、その人自身に価値はないのか?というと、
そんなことは絶対にない。
そういった不遇は、本人ではなく環境の問題、
外的要因に過ぎないからだ。
外的要因と人の魂はまったく関係がない。

往々にして、人は苦しみが多いと、
自分の人生に価値はないと決めてしまって、
前向きに生きることを放棄してしまう。
だが先ほど書いたように、
自分の価値と不遇な環境は相関がないのだ。
これは人の「不協和に耐えられない」という性質がそうさせると思っていて、
不遇な自分は不遇にふさわしい人間であると、
頭で辻褄を合わせて認知してしまうのだ。
だが感覚、本能はそんな嘘を許さない。
だから引き裂かれてつらくなる。

どんな不遇にあっても魂までダメになるわけではない。
それがダメになる瞬間があるとすれば、
それは、自分が受けた被害によって自らを犠牲者と断じ、
他人に同様の加害を加えはじめた時だろう。
かわいそうな自分にはその権利があると、
他人より自分が不幸なのは許されないと、
他人がそれぞれどのような不遇と戦っているかも知らずに、
自分自身だけにフォーカスして害をバトンした瞬間、
その人の魂は地に落ちるだろう。

そうしない、というのは戦いだし、
その戦いこそが自分に克つことだし、
何があっても自分を蔑まないことが価値だろう。
それだけでその人の生は意味を持つ。

不本意に負わされた生の中、
外的要因によって傷つき疲れ果てた魂は、
自分の内部からの認識と姿勢と志によって、
充分に救済され得るのだと言いたいのである。

by shinobu_kaki | 2018-03-08 09:35 | ライフ イズ | Trackback | Comments(0)

sympathy


何かを乗り越えてきたように見える人にシンパシーを感じる。

過去に何か強い喪失の体験があり、
一度は打ちひしがれて、無力感を味わいながらも、
そこからまた自ら生命力を発揮して、
しぶとくたくましく歩いているような人。
そういう人は男女問わず素敵だ。


誰かがいった、「不幸自慢は禁止」だと。
確かにその通りだと思う。
誰しも何がしかに傷ついた経験はあるし、
それを自分だけが特別なものであるように言うのは、
ありていに言えば甘えであり、
他人へのリスペクトを欠く行為になりかねない。

それでも、その人が自身の経験を振り返り、
はっきり「傷」と認識しながら、
それを言語化して相対化し、乗り越えるプロセスというのは、
「不幸自慢」などという形容では表せない、
一個の人間の「物語」として心を打つ。


真っ暗で、手を伸ばしても何にも触れない。
足元もおぼつかず、どこまで続くのかもわからない。
しかしいつか終わることだけはわかっている。
その上で、歩いてきた道だけが見えるのだ。
そういうイメージがこの生にはある。

そんな理不尽さに憤慨して、
もっとマシな環境を寄越せと運命を恨んで、
でもそんなものには怒りをぶつけられないから、
自分のルールに反したことをしているように見える他人を恨む。
それはやっぱり、タフさが足りないし、イージーだと思う。
気持ちはわかるが、少なくともありたい姿ではない。

人はどこかでそんな「志」に殉じるものではないかと思う。


ソーシャルではいろんな人の生きる姿が見える。
ほんとうに様々な人がいるが、
さまざまな感情を言語化しながらみんな生きている。
時々、そのこと自体にたまらなく感動してしまうことがあるのだ。



by shinobu_kaki | 2017-10-21 21:41 | ライフ イズ | Trackback | Comments(0)
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久しぶりに体重を量りはじめた。
iPhoneにデフォルトで入っている「ヘルスケア」というアプリに数値を入力する。
折れ線グラフで可視化させることで、自らに継続を促すためである。
プラス、腹筋などの運動は同じくiPhoneのカレンダーにメモする。
昨日はじめたばかりなのでどこまで続くかはわからない。
三日坊主かもしれない。
だけど最近、帰宅後の一連があまりにルーティン化してしまって、
本来ちょっとした快楽的な時間だったはずのひとときから少しずれた感じがあった。
それを打破したかった。
楽しみがルーティン化するもったいなさと、じわじわと体調の悪化する感じをだ。

「ヘルスケア」アプリの記録によると、前回の体重メモは2014年11月。
体重は今と1キロちょっとしか変わっていない。
もちろん今のほうが重い。
ただ、自分について言えば体重は20歳ぐらいの頃から5キロ前後しか変わっていない。

成人してからもっとも体重が軽かったのは、15年ほど前だった。
これは意図的に絞ったものだ。
当時の体重は今よりも数キロ重く、体重だけでなく全体的にたるんだ状態だった。
あるきっかけで、身体を絞ろうと決意した。
その日から炭水化物は半分に削り、毎日何かしら運動をすることを自分に課した。
具体的には夜、仕事が終わってから夜の街を走った。
距離はその日の調子に合わせたが、30分から1時間くらいが主だった。
当時は一人暮らしで、そういった極端な生活の切り替えについても自由だった。
週末になると、すでに入会していた徒歩3分のスポーツジムに通った。
体重は3ヶ月でかなり落ちた。1年以上続けたことになるだろうか、
結局、最大12キロの減量に成功した。
これはちょっとした自信になった。

副作用としては、大したことはないのだが抜け毛が増えた。
といってもハゲたわけではなく、
枕についた抜け毛の目立つ時期があったというだけだった。
減り続ける体重が安定するとともに抜け毛はおさまっていった。

その当時のようなハードな運動は年齢的にも状況的にも難しい。
思えば当時は牧歌的に気楽な立場を享受していた。
突然体重を減らそうとか、運動をしようというのは
非常にわかりやすい思いに根ざしている。
今の自分の停滞感を払拭したいのである。
当時もそうだった。今もそうだろう。

ところで昨日の運動後の、風呂上がりのビールは非常にうまかった。
バランスのいい生活、バランスのいい人生。
こんなアンバランスな人間はそれくらい標榜したほうがいいのだ。



by shinobu_kaki | 2017-07-20 21:17 | ライフ イズ | Trackback | Comments(0)

「怒り」について。

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人はどんな時に怒るのか。
「怒り」について、自分が以前ツイートしたものの中から抜粋。
メモです。長いですよ。





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by shinobu_kaki | 2017-02-14 19:58 | ライフ イズ | Trackback | Comments(0)

20160516

日々の達成目標をイメージして、
それができたら自分の心の中で祝い、慰労する。
ビールでもなんでもいい。

あまり長期スパンで考えない。
考えてもわからないことは考えてもしょうがない、
それはどうでもいいことだ。

他人という不確定要素についても同様で、
他人のことは考えてもわからない。
他人を前提に組み込んだ想定はなるべくしない。

できることをやり、やってみたいことをやる。
できないことははっきりと表明する。

人ははっきり断られることは嫌いではない。
断らずに困ったり不快感を表明するほうがよほど悪い。
目の前の相手に困られると、自分が相手を困らせた悪人ということになり、
人はそういう自分を許容できないために、困っている相手を否定する。
だから屈託なくはっきりと意思を表明したほうがいい。

シンプルに生きる。

シンプルに生きる、というのは態度を決めるということだ。
態度を決めるというのは、
何かを捨てたり嫌われたりすることも辞さない、
こっから先はぜんぶ持っていってもいいよ、
でもひとつだけこれは守るからね、という覚悟を持つってこと。

違う言い方で言えば、
どこかで誰かに笑われていたとしても構わないということ。
そこは大事なものではないから捨ててしまう。
抱える必要がないものだ。

誰にとっても、どうせいつかに人生の終わりはくる。
それがいつかはわからない。
起きてしまった過去は消せないし、
なかったことにはできないけれど、丸ごと押し流してしまう。
誰しもそうやって生きるしかない。


短く、軽く、一日ずつ。
なるべく拘泥や執着から離れていくこと。


目が覚めて、
あれっ、自分はこの先どうやって生きていけばいいんだっけ?
と思う朝に。
by shinobu_kaki | 2016-05-16 08:32 | ライフ イズ | Trackback | Comments(0)

ナイーブさについて。

ナイーブ、という人物形容に良い意味はない。

ときどきナイーブさ=敏感さ、みたいに思われがちだが、
それはセンシティブという別の表現があるのであって、
ナイーブというのは少なくとも自分の中では、
未成熟で脆弱で折れやすい、ただの精神的ひ弱さでしかない。

そう前置きしたうえで、自分はナイーブかナイーブでないかというと、
明らかにナイーブなほうに入るのだろうと思う。
また、シャイかシャイでないかという区分に置いてもやはり、
シャイなグループに入ってしまうのは否めない。
年をそれなりに取っていけばこういうものは徐々に改善されて、
年相応のタフな大人というものに自分ですらも変貌を遂げるのだろう、
それが言い過ぎならば収まるべき姿に収まるのだろうと考えていたものの、
どうやら43歳という年齢になってもフラジリティを持ったままである。

ナイーブさを自覚する具体的な例として、
他人に相対したときの精神コンディションの不安定さがある。
屈託があるのである。
自分が思っていたり相手に伝えたかったりすることが普段あったとして、
その場面においてあるべき形で表出できずに、
あとで忸怩たる思いを抱く…ということもそれなりに多く、
またそういった自分の中のバイオリズム的なアップダウンに抗うことができない。
人が人を「タフ」だと言うときの中身というのは、対他人ではなく、
この自分の内部の屈託に対するタフさのことではないかと思う。
by shinobu_kaki | 2016-04-30 23:06 | ライフ イズ | Trackback | Comments(0)
映画を嫌いな人はいないという。

「いや、映画嫌いだよ。まず観に行くのが面倒くさい。それに値段も高い」
という反論がありそうだが、
これは映画が嫌いなのではなくて、
「映画を観るための手続きにハードルがある」ということだろう。

もっと違う定義、そうね、
「映像による物語作品」を嫌いかどうか、かな。
そうすれば答えはもう少し違ってくるのかもしれない。

子供の頃、授業のカリキュラムの一環として、
クラスのみんなで映画を観たことがある。
いくつか覚えている中では、
『ドン松五郎の一生』『零戦燃ゆ』『スタンド・バイ・ミー』
そんなところだ。

『スタンド・バイ・ミー』は長かったので、
2週に分けて観たよね。
みんな感動していた。
確か自分も感動していたと思う。
大人が観てもいい映画だからね、無理もない。

『スタンド・バイ・ミー』はスティーブン・キングの原作で、
もともと奇妙な話なんだけれど、
12歳という「少年期の終わり」を描くロードムービー、
という立ち位置が非常に象徴的で、
乾いた感じの映像も、ラストに流れる主題歌もとても良かったし、
もちろんリバー・フェニックスをはじめとした俳優も素晴らしかった。

こういう記事があった。
映画「スタンド・バイ・ミー」のロケ地の当時と現在を比較した写真20枚
驚くほど変わっていない、というのが印象だし、
多分今後大きく変わるということはないのではないか。
うらびれた日本の田舎がそうであるように。


さて、最初に書いた話についてである。
「映画を嫌いな人はいない」というやつ。
なんでそんなことを言いだしたかというと、
とある本(小説である)を読んでいて、
「映画は観ない人も結構いるだろうが、本を読まない人のほうが多いかもな」
とふと思ったのだった。

映画はテレビ(金曜ロードショーとかああいうやつね)によって、
映画館に行かない人にも触れる機会ができていた。
でも、本を読まない人は何があろうと本を読まない気がしたのだ。

誤解を恐れずに言えば、
映像というのは怠惰な人にも優しいメディアである。
受け身でもってぼんやり触れることも可能であるという意味で。
しかし本はそうはいかない。
ある程度の意志がないと本は読めない。
あるいは意志を必要としないくらい習慣化できている人、
そういう人が本を読むのだと。

自分はいつも何かしら読んでいるといえばいるが、
比較的だらだらと、前に読んだものでも繰り返し読むという感じである。
征服するような読書ではない。
なのでトータルの読書量というのはあまりないはずである。
まあ、こういうのは競うものではないのでいいのだが、
スタンダードをきちんと押さえている早熟な読書家には、
どこか遅れをとってしまっているような気がするのも確かなのである。
by shinobu_kaki | 2014-12-10 17:36 | ライフ イズ | Trackback | Comments(0)

Disappeared.


ロビン・ウィリアムズ自殺の報はやっぱりショックだったよね。

知ってるのはスクリーンに映った俳優としての彼の姿だけで、
本人の人となりなど知る由もないのだが、
子供の頃に抱いた「優しそうな人だな」「穏やかそうな人だな」という
勝手で一方的な印象は失われないままだった。

ロビン・ウィリアムズさん「愛してるよ」最後のSNS投稿は娘へのメッセージ

これなんか読んで、こっそり涙していた。
娘がいる自分の環境とやっぱりかぶってしまう。
「いまでも僕のかわいいベイビーだよ。誕生日おめでとう。愛してるよ。」
というフレーズは何度読んでも涙腺に刺さる。
シンプルな言葉なんだけどね。感情が無抵抗に反応してしまう。


自殺を考えたことがない、という人のことがよくわからない。
もちろんそういう人は結構いる。
ただ、自殺を考えたことがない=幸せな人生、ということでもないだろう。
同じだけつらいことがあったとしても、
ある種の精神の回路として、つらさの処理として、
「自殺してしまいたいな」とは考えなかった、という話ではないかと思う。

曰く、「死にたい」は「生きたい」の言い換えであるという。
ちょっと言葉遊びっぽいけどね。まあ真実だと思う。
もう少し言えば、
「今のこのつらい人生ではなくて、より良い別の人生を生きたい」
というのが「死にたい」という言葉の内実ではなかろうか。
つまり逃避願望である。
でもそんなことは無理だということがはじめからわかっているので、
「死にたい」という言い方になるのだろう。
死ぬ、というのは一応現実的ではあるものね。

人が「死にたい」と思う、
つまり「もう何もかもやめたい」と考えるのは、
気持ちの面で言うと、ある種の永遠性に捉われているのではないかと思う。
要するに、
「このままのつらさが永遠に続いて終わらないのではないか」と考えた時に、
人は絶望する。逃げ道を見失う。もうどうしようもないと思う。
瞬間的なつらさとか負荷というのは実は結構耐えられるものなのだが、
実は「終わりがまったく見えない」というのがつらい。
逆に、終わりが見えれば人は結構頑張れてしまうものなのだ。


人生に終わりはないのかというと、もちろんそんなことはない。
人は誰だっていつか死ぬ。
そこまで先じゃなかったとしても同じ状況がずっと続くというのは考えにくい。
自分から変えようと動いたなら、さらにその期間は早まるだろう。

人生のつらさというのはつまるところ対人関係のつらさである。
いま身の回りにいる人との関係、しがらみがつらいのだ。
これは、切り捨てる優先順位をしっかりと決め込んで臨めば、
実は以外と打破できるということもある。
本当につらければ、自分の居場所を変えればいいのである。
簡単にはできないからこそ苦しんでいるんだと言われそうだが、
それはどちらも取ろうとするから、
心が引き裂かれてしまって苦しいのだ。
大胆に何かを捨てる覚悟があれば居場所は変えることが可能だ。
あとはなるべく健康であることと、期待値の持ち方を間違えなければ、
そこそこタフに生きて行くことが可能だと信じる。

まず生きるのが優先というか、前提だ。
つらさはその下位レイヤーにある。
いまは先が見えなくてもそれは永遠ではない。
もちろん人のことはわからない。
でもなるべく生きて欲しいと思うのだ。
天国はない。でも小さな救いを拾い集めて生きて行くのは悪くない。


このへんの話はとても書ききれないので、またいずれ。
by shinobu_kaki | 2014-08-13 20:00 | ライフ イズ | Trackback | Comments(0)
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