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人生29歳変動説

僕は仕事から帰るとまず着替えて風呂に入るのだが、
今日は湯船にゆっくり浸かりながら、
田口ランディの「馬鹿な男ほど愛おしい」という
ものすごいタイトルのエッセイ集を読んでいた。
その中に「人生29歳変動説」という表題の文章があった。
長くなるが引用してみたい。


いろんな方の話を聞くと、
かなりの確率で…というかびっくりするような確率で、
29歳で人生の転機を迎える人が多いのである。
29歳には何かある、とつねづね思ってきた。
そういえばブッダが出家したのだって29歳だった。
この29歳の転機というのは、
その人の天職というものと非常に深く関わっている。
29歳で、自分の価値観や、携わっている行為に対して疑問を持ち、
そして疑問を解決すべく行動した人はその後、
32歳の時に別の転機と遭遇するのだ。
で、この32歳の時の転機が、自分の天職を決めていく。
その後、35歳、38歳と順調に自分の人生の意味を見出し、
42歳前後で迷いが出る。この40歳代の迷いというのは、
身体の変調という形で表出したり、
もしくは女性(あるいは男性)に恋をしてしまう…
というような形で現れたり、それまでまったく興味のなかったものに
狂ったように魅かれたりするのだが、とにかく心と身体が動揺し、
その経験によって、本当に自分が望んでいる生き方とは
どんなものかを再確認し、それが完了すると50歳から
「奉仕」というものを仕事の中心に据えて生き始めるようなのである。

(引用ここまで)


経験則である。
別にすべての人にとって「29歳で転機が訪れる」とは書いていない。
ただ「たまたま、わたしが会った人の多くが」29歳を転機としていた、
という話にすぎない。
だが29という数字は何かしらの説得力を帯びて我々の耳に響く。
あとひとつで大台、という数字には、
何かが飽和したような、何かが終わりの時を迎えるような、
大晦日的クライマックス感があるのだ。

そして自分の記憶に質問してみる。
「29歳に何か転機と呼べるようなことはあったか?」
あったかもしれない。
あれかな、と思う。
転機と呼ぶのだからもちろん良いほうのそれである。
世界が広がるきっかけというか、
世界の色が好ましい鮮やかさに染まるその導入部である。
そして、ある意味当たり前なのだが、
今の自分の人生自体、そのきっかけの延長線上にあるのだ。

著者によると、誰もがぴったり29歳というばかりでもないらしい。
「29歳の時にとりたてて何もなかった、
どんな転機も訪れなかった人は、たいてい、
『でも、30歳の時にあったな』『28歳の時にあったな』
とか言うのである。私はこの話をずいぶんといろんな人にしてきたが、
『自分に転機がなかった』という人には一人も会ったことがない。
本当に一人もである」なのだそうである。

もちろん、著者の相手がある程度話を合わせてくれた可能性もある。
転機という視点で思い返すと、
どんな小さな出来事でも転機として捉えうる構造は確かにある。
そういう意味で「29歳で転機がくるんだ!」とストレートに信じることは、
あまりに素直すぎると言わなければならない、かもしれない。

ただ非常に限定的に、
自分自身のこととして思い返しても、
29歳というのはやはり特別な年齢であったと感じるし、
その時に出会った刺激的なあれこれというのは、
非常に好ましい色彩を人生に与えてくれたと思わざるを得ない。

たぶん、そういう歳ってあるんだと思う。
# by shinobu_kaki | 2014-01-28 00:30 | 言葉は踊る。

冬のピーク。

今日は寒かったね。
年が明けて日に日に寒くなる。

いったい、冬のピークというのはいつなのだろう。

日の短い冬至(12月22日頃)がそうだといえばそうかもしれないが、
いつも冬至を迎えて思うのは、
「え、もう?」という感じであるため、
あのへんがピークとは認めたくない。

だいたい一番寒いのって1月に入ってからくらいだろう。
一日のうちで正午でなく、午後2時くらいの少し「ずれた」あたりが
もっとも暑い時間帯というのに似ている。

秋田のかまくらってあるでしょう?
雪のドーム。イグルーみたいなのね。
あれだって正月の頃にはまだやってなくって、
本番は2月らしいのだ。
一番寒いのがその頃だからだろうか?

それにしても今日は寒かった。
乗換駅のホームで特急を待ってるときとか、
ちょっと壊れそうだった。
# by shinobu_kaki | 2014-01-10 00:45 | ライフ イズ

オオ!つごもりに


おはようございます。
2013年の大晦日の朝にこれを書いています。

本当はもっと寝ていたかった気もするのですが、
なんとなく目が覚めてしまったので、
せっかくだから起きてみることにしました。
コーヒーを入れて、エアコンをつけて、
身体と部屋をあたためながらキーボードを叩いています。

冬至からまだそれほど経っていない朝7時の空というのは、
もちろん夜明け前のような感じではありませんが、
まだ低い位置にある太陽が、窓から見える家々の壁を横から照らし、
方角が逆なだけでさながら夕陽と区別がつきません。

昔、学生の時に徹マン(=徹夜麻雀)明けで昼ぐらいからこんこんと眠り、
目を覚まして時計を見ると4時、外も薄暗く日暮れてきて、
あれ4時間くらいで起きてしまったかな、と思って
テレビをつけたら何もやっていない、
そこで初めて自分が16時間ほど寝ていたことに気づいたのですが、
そんなことを思い出しました。

郷里の秋田へは明日の午前中に経ちます。
諸々の都合で年が明けてからの帰省となりました。
たった2泊3日ですが、温泉に入ったり、雪遊びをしたり、
なるべくリフレッシュしてきたいと思います。
夫の実家ということで、妻にはどうしても気を使わせてしまうと思うけれど。

娘はこの秋田行きを何日も前からとても楽しみにしていました。
明日の朝は、もう出立の朝です。
体調を崩さないように一日を過ごそうね。

今年はブログを本当に書かなかった月でした。
1月にエントリを7本、
2月は2本、
3月は4本、
4月は1本、
7月は1本、
8月は1本、
9月に4本、
11月は1本、
12月にはこれも含めると3本。

5、6、10月はゼロ。
書きかけて下書きだけがあるエントリも実は5〜6本あるのですが、
1年間トータルで17本とは、
まあ生きているブログとは言い難い。
あと、こう言ってしまうのもなんですが、
書くことにあまり重心が乗ってない感じが自分でもしていて、
読んでも詰まらないだろうというテンションの低さがあります。
低さがあるというか、高さがないというか。

今年はもっとブログを書こうと思う、
などと気持ちとは相反することを宣言してもつらいだけなので、しません。
最近ね、あらためてなんですけど、
やはり人は感情と違うことをしたり言ったりしてはいけないのだと、
それをやるとあまり良い事はないのだと、思うようになりました。
気持ちを垂れ流すという意味ではありません。
言動をなるべく本心に近づける、引き寄せるということです。
つまり本当の心と離れた言葉や行動は、
自分だけでなく他人も苦しめるからです。
これは間違いありません。

もう一度窓の外を見やります。
東の空がさらに明るくなってきました。
僕のいるリビングから見えるのは、
ベランダに黄金色に反射した光の束です。
美しいなあ、と思う。
花鳥風月に気持ちが行くのは年を取った証拠と言われますが、
それでいいのです。僕も、年を取った分ちゃんと年を取ろうと思います。
良いも悪いもありません。それがフェアであるということです。

少しぬるくなったコーヒー、
少しあたたまってきた部屋、
世界に誰もいないような一年の最後の静かな朝。

おおつごもりに。
# by shinobu_kaki | 2013-12-31 07:36 | ライフ イズ

尊厳、幸福、平均寿命。

今朝、たまたまこんなページを読んでいたのですよ。
語っている方々への云々についてはおいといて、
高齢化社会における介護という問題は、
誰にとってもそれなりに心労をともなって受け取られる問題だ。
ヘビーである。

介護とは違うが、脳死状態、というケースがある。
もし自分自身が回復の見込みのない状態に陥って、
医療の力だけで生きながらえるしかないのだとしたら、
生命維持装置は外して欲しいと願っている。
この場合の尊厳とは、
患者本人の生き方のためにというニュアンスがあると思うのだが、
(今の例えの場合、僕の尊厳のためにということだ)、
本当の目的は遺族の経済的負担であると思う。
要するに「家族に不要な迷惑をかけたくない」ということなのである。

では「尊厳」と「介護」「痴呆」という問題はどうか。

上に書いたようなことでいうならば、
あくまで自分のケースとして、
自分自身の状態があまりに修羅場ばかりを生み出すようであれば、
やはり考えてしまう。
ただしこれはもちろん難しい。

あえて書いてみるが…。
ひとつには、痴呆とは「ほとんど死んでいる状態」とはほど遠いということ。
ひとつには、その人自身の判断能力がほとんどない状態で、
「もういいよ」と判断する人の責任が重すぎるということ。

話題を変える。
平均寿命ということについて。

日本の平均寿命の推移をグラフ化してみる

上によると、2012年における日本の平均寿命は、
男性が79.94歳、女性が86.41歳(2013年7月発表)。
かつて生産年齢が60歳までという文化のあった日本で、
これはなかなかアンバランスと言わなければならない。

なんだかんだ言っても生きるのには金がかかる。
それを誰が負担するの?という問題に、当たり前だが行きあたる。

人間の、特に日本人の寿命が延びたことについては色々な説がある。
どうして日本人は平均寿命が高いの? NAVERまとめ
戦後、日本人の平均寿命が伸びたわけ
日本人はなぜ長生きか

何においても理由というのはひとつではないので、
複数の要因があるのは間違いないと思うのだが、
医療の発達は大きな理由のひとつであろう。

だが、人の命を救おうとあらゆる手を尽くすことは、
シンプルに考えた場合、圧倒的な「善」である。

ただそれに、経済をはじめとした、
豊かに生きるための社会のしくみが追いついていないことで、
ある種の不幸が生まれているのは間違いないのだろう。

しくみが状況に追いついていない時、
どうなるかというと、個人が難しい判断を迫られるのである。
「責任」が個人に帰属するのだ。
これはけっこうきつい。

個人同士の関係においても、責任の所在というのはキーワードだ。
お互いが責任をどこに持って行くか、
その姿勢自体によって、生まれる争いは非常に多いからだ。

過去、難しくない時代なんかどこにもなかったのかもしれないけど、
やっぱり今は難しい時代なのかもと思ってしまう。
ねじれというか、ゆがみというか、
一種の構造的瑕疵のようなものが見えて来ているようで、
どこかぐにゃりとした世界の中で生きている、
そんな感じがしてしまう。
# by shinobu_kaki | 2013-12-30 09:10 | エウレーカ!

一人旅について。

たまたま見かけた誰かのブログエントリで、
「一人ではない旅は、『旅』と言えるのだろうか」という一文に出会った。

人数に関わらず「旅」と呼んで差し支えないと個人的には思うが、
一人旅とそれ以外では、確かにまったく質が違う。
だから「旅」という大きなくくりの言い方に対して、
「一人旅」という言葉がわざわざ存在するのだろう。

僕は単独行動に快適さを覚えるタイプなので、
もちろん一人旅も大好きである。

自分の過去の一人旅での過ごし方を思い返してみると、
まず、非常にたくさん歩く。
かなり歩く。スピードも速い。
宿に着いて足が痛いのに気がつくことがしばしばである。
そして電車などの移動中は本を読んでいる。
ぼーっと景色を眺めるということが実は少ない。
つまり「何もしない」という時間の使い方をあまりしない。
これが一人旅界におけるマジョリティなのかマイノリティなのか、
そのあたりはよくわからない。

一人旅をしていると、実は退屈な時間というものが一定以上ある。
話し相手がいないわけだから当然なのだが、
わざわざ一人で出かけておいて退屈というのは矛盾している気もするが、
これは一人旅の必要悪のようなものかなと思ったりする。

日常の暮らしにしてからがそうだが、
すべての時間が楽しいということはあり得ない。

グッとくる瞬間であるとか、
救われたような時間であるとか、
心から素晴らしいと思える体験であるとか、
そういうものに触れられることがわずかでもあったなら、
トータルとしてのその時間は非常に充実した、
幸福なものなのである。
一人旅はそれを非常に先鋭化した形で見せてくれる。

さらに面白いなと思うのは、
その時は感じたはずの退屈な時間というものは、
後で思い返すと記憶の中から揮発したように消え去っている。
旅全体を思い返す中で、
まず思い出すのは気持ちの良かったほうの瞬間である。
なぜか。

「人間は生きてゆくために、嫌なことを上手く忘れるように出来ている」
などとも言われる。
が、それだけでもないのではないか。

つまり人の体験のトータルとして、
「快適さや感動をよりよく受け取るために必要な退屈の量というのがあり、
それ自体は別に不幸なことではないのだ」
という頭の中での感覚的納得が、
退屈な記憶を消し去るように出来ているのではないだろうか、
とも思うのである。


旅の定義としては、
新明解国語辞典にはこのようにあるらしい。

「差し当たっての用事ではないが、判で押したような毎日の生活の枠から
ある期間離れて、ほかの土地で非日常的な生活を送り迎えること」


ポイントは「毎日の生活の枠から離れて」ということだろう。
繰り返す日常の「業」がどうしてもあるとして、
そこから非常にわずかな比率だけ抽出された「非日常」、
それが旅の本質であろう。
つまり旅が日常化した人にとっては、他の人の日常こそが旅なのだ。
言ってしまえば人生の比率の問題なのである。
そしてこれは、つい先ほど書いた「退屈と感動」の比率にも似ている。

楽しい時間は多いに越したことはないのだけれど、
「いつもいつも楽しい」という人は、
「楽しくない時間」を何かの形に変換してしまっているのではないか。
暗がりがあるからこそ光を明るく感じるわけで、
人にとってちょうどいい、ハレとケの黄金率のようなものが、
実は存在するのではないだろうかと僕なんかは思ってしまう。

しかし、旅はいいですね。
それほどのロングトリップじゃなくても、
身近な国内にちょっと行って美味しいものを食べる、
自分の望む幸福の現実的最大値って実はそのへんだったりする。


というところで久しぶりのエントリはここまで。
ではまた。
# by shinobu_kaki | 2013-12-20 20:30 | チープ・トリップ

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by Shinobu_kaki
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